角川新書より刊行されている蛭子能収さんの「ひとりぼっちを笑うな」。

今日はこの本についてぼっちなりの視点から取り上げてみました。

・・・、取り上げるも何も、共感できるところがたくさんありました。

まず「大皿料理が苦手」。「『早くお開きにならないかな』と、頭のなかで思いながらやりすごしています」。と書いてあり、さらにお弁当のように「これは自分で食べる分」と決められたものを、誰もいない場所でひとりぼっちになって食べたい。
蛭子さんはこう書いています。

ぼっち(筆者)もそうです。
社会人になった今、研究所のようなところに勤めていますが昼休みに食堂で同僚らと食事をするのが苦痛です。

同僚と世間話をすること=時間を無駄にしていること

に感じてしまうからです。昼休みは1時間しかない。その中で自分には食事以外にやりたいことがある。にもかかわらず時間を雑談で失われることが苦痛でたまらないのです。

と書くと、多くの人は

「そんなことはない。雑談から生まれてくる仕事だってある」
「人間関係がそれで円滑に回るんだ」

と思うことでしょう。

いえ、ぼっちの視点は違います。(だからぼっちなのです。自分でぼっちを選び取っているのです)

ぼっちには
自分がやりたいことをする>>>>>>>人間関係
という図式が完全に成り立っているので一人の時間が大変貴重なのでした。
(最近、ぼっちの周りで人が亡くなったりしているので、「生きている間に得られる自分の時間」は多少の人間関係よりもはるかに大切なのです)

蛭子さんはさらに書いています。「食事会や飲み会はムダ話の宝庫」。
「あれは一体なんの話をして盛り上がっているのかな? というか、全体的にくだらなことをしゃべっている気がする……けれど、これは偏見なのかな?」
偏見じゃないですよ!!
ぼっちは飲み会を引退しました。理由はくだらないからです。
多少の人間関係を良くすることよりも、走って体を鍛えること。ヴァイオリンを練習してバッハやヘンデルの作品をなるべく美しく演奏すること。そのための時間を確保すること。
同じ1時間、2時間を費やすならば飲み会よりもそのほうがぼっちにとっては有意義なのでした。

ぼっちなりにそういう日々を送っていると、どうしても周りの人を見つつ、こういう疑問を抑えられなくなるのでした。
なんでサラリーマンってやりたいことがない人だらけなんだろう?

・・・随分蛭子さんの本から逸脱しましたので話を戻しますが、「どこまでも自由人で、好んでひとりになりたいと思うタイプ」と語る蛭子さん。
「結局、振り返ってみれば、いまの自分につながるようなことは、20歳くらいのころまでに全部一通りやっているんですよ。好きなものの対象なんて、ほとんどの人が子ども時代にある根底と大きな差はないはずです」とも語っています。

これは誰にとっても当てはまることではないでしょうか。
中学校~高校のころに文学やクラシック音楽と出会った自分は今の自分とほとんど変わっていません。
(つまり昔からぼっち)

自分を確立するにあたり、一人で自分を見つめることは誰もが通る道です。
そのために「ひとりぼっちであること」は笑うどころではなく、大変重要なことです。




ぼっち(管理人)以外の方の書評はこちらでどうぞ。 → ひとりぼっちを笑うな