これまで、大学入学後になぜぼっちになるのかを書いてきた。
・携帯を買わなかった(いまならさしづめスマホを持たない、LINEやらない)
・TVを買わなかった
・マイナーな趣味
・変わらないライフスタイル

・・・これでだいたい共通項が見えてきただろう。

「変わるべき時に、変わらなかった」
「変わるべき時に、自分を変えられなかった」
「変わろうともしなかった」
「変わらなくては、という気づきもなかった」

コレ。コレな。


実家から東京に出て、大学生活を始める。

人生の一大変化時期なのだから、当然暮らし方、人との付き合い方もそれに見合って変えていくべきだったのだ。
しかしぼっちは自分の暮らし方にこだわり変化への対応を拒んだ。
気づいたときには何万人という学生がいるはずのキャンパスでリアルぼっちになっていた。

ぼっちはぼっちなりにその生活を当たり前のものとして受け入れ、様々なクラシックの演奏家の実演に触れることができたり図書館で貴重な本を目にすることができた(理解できたかどうかは別!)ので損をしたという感覚は今もない。

とは言っても変わるきっかけ、違うことをしてみるという心がけがあれば大学時代はもっと違ったものになっていたかもしれない。

その後就職してからいくつかの町で暮らすことになるのだが、人の性格は変わらない(変えられない)。
同じようなパターンでどの町でも結局ぼっちになるのだった。


そもそも、ぼっちとはなんだろうか?
一人であることには固有の良さ、悪さがあるのではないか?
一括りにぼっちといっても、そのあり方は人それぞれではないか? 100人の人がいたら100通りのぼっちがあるのではないか?

例えば芸術家としてのぼっち。
宮沢賢治は「告別」という詩でこう語りかける。

「みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ」

片や、俺のようにコミュ力なくて結果的にぼっちになる奴。

古今東西、様々なぼっちがいたのではないか? 

未来のぼっちはどんな暮らしをしている?

・・・考えれば考えるほど調べたくなってワクワクしてくる。


・・・ぼっちのあり方暮らし方、これは大きな研究テーマといえる。