「絶望的な状況はない。 絶望する人間がいるだけだ。」これはグデーリアンが遺した言葉だと言われています。グデーリアンというのはドイツの陸軍軍人で、第二次世界大戦の前半では第一線の指揮官として軍団長や軍司令官を務め、大戦後半では装甲兵総監・参謀総長代理を歴任しています。

軍人であるということは、文字どおりの修羅場を経験したことがあるはずで、その彼が言った言葉ですから重みがまるで違いますね。この言葉の面白いところは、「状況そのもの」と「状況をどう受け止めるか」を切り分けているところです。たしかに、戦場には人間の努力ではどうにもならないことがいくらでもあります。敵に包囲される、補給が途絶える、味方が次々と倒れる、撤退路が断たれる。こうした状況を前にして「大丈夫、なんとかなる」と言っても、現実そのものが変わるわけではありません。

それでも、「もう終わりだ」と判断した瞬間に、人間ができることまで終わってしまうことがあります。

たとえば、絶望しているときには「100ある問題を全部解決しなければならない」と考えてしまいます。しかし、実際には100の問題のうち、今日解決できるのは1つだけかもしれません。それなら、その1つを片付ければいい。明日のことは明日考える。場合によっては、「勝つ」ことではなく「生き残る」ことを目標に変更するだけでもいいでしょう。

これは戦場に限った話ではありません。仕事をしていて、とんでもなく面倒な案件を抱えてしまったとき、転職先で「これは自分には無理なのではないか」と思ったとき、あるいは人生そのものについて「この先どうすればいいのだろう」と途方に暮れたときにも、似たようなことが言えます。

絶望しているときは、未来を一気に見通そうとします。「このまま10年、20年続いたらどうなるのか」と考えてしまう。しかし、人間が実際に生きているのは今日一日です。10年後の問題を今日解決する必要はありません。今日の昼食を食べ、今日の仕事を終え、今日の夜になったら寝る。それだけでも十分です。一気にすべてを片付けようと思わないほうがいいですね。

もちろん、これは「どんな状況でも努力すれば必ず何とかなる」という精神論ではありません。世の中には、本当にどうにもならないことがあります。病気、災害、失業、戦争、事故など、自分の努力だけでは回避できない出来事はいくらでもあります。「絶望するな」と言われても、絶望してしまうのが人間です。だから、この言葉を「絶望することは悪い」と読む必要はないのだと思います。むしろ、「絶望したからといって、そこで判断を止める必要はない」という意味に捉えたほうがいいでしょう。

戦場では、楽観主義よりも状況判断のほうが重要です。「絶望的ではない」と思い込むことではなく、絶望的に見える状況の中から、まだ残っている選択肢を探し、撤退できるなら撤退する、戦線を縮小するとか、補給を待つという行動を選べます。あるいは、そもそも戦う必要がないなら戦わないというのも検討に値するでしょう。

そう考えると、「絶望的な状況はない」という言葉は、「何でも根性で乗り越えろ」という体育会系の精神論とは少し違います。むしろ、「状況が悪いなら、悪いなりに作戦を変更すればいい」という、極めて現実的な言葉にも見えてきます。人生も案外、同じなのかもしれません。予定していた人生から外れてしまったとしても、それは必ずしも人生そのものの敗北ではありません。目的地に到達できないなら、目的地を変更してもよいでしょう。

「絶望的な状況はない」というより、「絶望的だと思ったときこそ、まだ作戦変更の余地がある」。私はこのくらいに解釈しておくと、この言葉はずいぶん現代の生活にも使いやすくなるような気がします。