数々の名作を残したラフマニノフ。『交響曲第2番』『ピアノ協奏曲第2番』のように起伏に富む作品は演奏会でもよくプログラムに掲載されます。
なのですが、私にはよく分からないときがあります。というか上記2作以外は何度聴いても頭に残りません。謎ですがそうなのです。あるときN響で聴いた『ピアノ協奏曲第3番』もそうです。それまでCDで何度か聴いても印象に残らず、実演で聴いたら印象が変わるかなと思っていたら途中で寝てしまいました。
『チェロ・ソナタ』もしかり。ロシア情緒あふれるロマン派らしい旋律が延々と続くのはよいのですが延々と続きすぎて逆になんだか分かりません。ベートーヴェンとかブラームスならもっとドラマある展開になっていたでしょうけれども、A → A' → A'' →A''' のように聴こえてしまうのです。本来ならA → B → C → A'だろう、と言いたいのですが全部同じだと理解してしまい、途中でスルーして気がついたら曲が終わっている、というのが私の毎度のパターンなのです。
なぜ私はラフマニノフの作品がこうも頭に残らないのでしょう。
別にラフマニノフが嫌いなわけではありません。むしろ「ロシアの作曲家らしい、暗くて美しい旋律」というものはかなり好きです。『交響曲第2番』など、聴いていると「やっぱりラフマニノフはいいなあ」と思います。ところが、そこから少し外れると途端に分からなくなります。
これはラフマニノフの作品が単純だから、という話ではありません。むしろ逆で、ものすごくたくさんのことが起きているのだと思います。旋律は美しいです。オーケストラは充実した響きを示します。和声も変化します。盛り上がって、静かになって、また盛り上がるわけです。ところが私の耳には、その一つ一つが「別の出来事」として整理されず、全部まとめて「ラフマニノフの美しい音楽」として流れていってしまうのです。
たとえばベートーヴェンなら、「ここで何か始まった」と比較的分かりやすいです。ブラームスでも、ある主題が変形され、対立する素材が出てきて、それが絡み合って、最後に何か決着した、という感じがあります。聴いている側としても「いま私は物語のこの辺にいる」という感覚を持ちやすい。
ところがラフマニノフを聴いていると、私の場合、その「現在地」が分からなくなる。
「さっきもこんな旋律があったような?」
と思っているうちに、さらに美しい旋律が出てきます。
「おお、これはいい」
と思っているうちに、それがまた別の美しい旋律につながっていく。そして気がつけば、
「終わった?」
となるわけです。実に申し訳ない聴き方です。
もちろん、ラフマニノフの側からすれば「ちゃんと展開しているぞ」と言いたいでしょう。実際、楽曲分析をすれば主題の変形や再現、調性の変化など、きちんとした構造が存在します。私の耳がそれを聴き取れていないだけなのです。
しかし、音楽を聴くというのは、楽譜を見ながら構造を確認する試験ではありません。聴いている本人が「いま何が起きているのか」を感じられなければ、少なくとも私にとっては、その構造は存在しないのと同じです。
そして、ここが面白いところなのですが、私はラフマニノフのすべてが分からないわけではありません。『交響曲第2番』や『ピアノ協奏曲第2番』になると、ちゃんと分かる。あれだけ長い曲でも、どこかで「ああ、ここだ」と思える。旋律が戻ってきたときにも「戻ってきた」と理解できます。
つまり私はラフマニノフが苦手なのではなく、「ラフマニノフの中でも私の耳が理解できるラフマニノフ」があるのかもしれません。これは音楽に限った話でもありません。世間では名作とされている小説なのに、なぜか登場人物の名前が頭に入らないこともあります。美術館で高く評価されている絵を見ても「うーん、よく分からない」と思うこともあります。つまり名作であることと、自分にとって分かりやすいことは別なのです。
だから、ラフマニノフの『チェロ・ソナタ』を聴いて途中で意識を失いそうになったからといって、「私はクラシック音楽を理解できない人間なのだ」と落ち込む必要はないのでしょう。単に私の耳にとって、A→A'→A''→A'''が長すぎるだけなのです。そして今日もラフマニノフは、こちらが寝てしまったことなどまったく気にせず、ロシアの大地から湧き出てきたような美しい旋律を延々と奏で続ける。
「いや、もうちょっと展開してくれませんか」
と言いたくなる私と、
「これがいいんだよ」
と言っているラフマニノフ。たぶん、両者の間には永遠に埋まらない溝があるのでしょう。
でも、そういう「名作なのに自分にはどうしても分からない」という作品があるのも、クラシック音楽を聴く面白さなのかもしれません。
別にラフマニノフが嫌いなわけではありません。むしろ「ロシアの作曲家らしい、暗くて美しい旋律」というものはかなり好きです。『交響曲第2番』など、聴いていると「やっぱりラフマニノフはいいなあ」と思います。ところが、そこから少し外れると途端に分からなくなります。
これはラフマニノフの作品が単純だから、という話ではありません。むしろ逆で、ものすごくたくさんのことが起きているのだと思います。旋律は美しいです。オーケストラは充実した響きを示します。和声も変化します。盛り上がって、静かになって、また盛り上がるわけです。ところが私の耳には、その一つ一つが「別の出来事」として整理されず、全部まとめて「ラフマニノフの美しい音楽」として流れていってしまうのです。
たとえばベートーヴェンなら、「ここで何か始まった」と比較的分かりやすいです。ブラームスでも、ある主題が変形され、対立する素材が出てきて、それが絡み合って、最後に何か決着した、という感じがあります。聴いている側としても「いま私は物語のこの辺にいる」という感覚を持ちやすい。
ところがラフマニノフを聴いていると、私の場合、その「現在地」が分からなくなる。
「さっきもこんな旋律があったような?」
と思っているうちに、さらに美しい旋律が出てきます。
「おお、これはいい」
と思っているうちに、それがまた別の美しい旋律につながっていく。そして気がつけば、
「終わった?」
となるわけです。実に申し訳ない聴き方です。
もちろん、ラフマニノフの側からすれば「ちゃんと展開しているぞ」と言いたいでしょう。実際、楽曲分析をすれば主題の変形や再現、調性の変化など、きちんとした構造が存在します。私の耳がそれを聴き取れていないだけなのです。
しかし、音楽を聴くというのは、楽譜を見ながら構造を確認する試験ではありません。聴いている本人が「いま何が起きているのか」を感じられなければ、少なくとも私にとっては、その構造は存在しないのと同じです。
そして、ここが面白いところなのですが、私はラフマニノフのすべてが分からないわけではありません。『交響曲第2番』や『ピアノ協奏曲第2番』になると、ちゃんと分かる。あれだけ長い曲でも、どこかで「ああ、ここだ」と思える。旋律が戻ってきたときにも「戻ってきた」と理解できます。
つまり私はラフマニノフが苦手なのではなく、「ラフマニノフの中でも私の耳が理解できるラフマニノフ」があるのかもしれません。これは音楽に限った話でもありません。世間では名作とされている小説なのに、なぜか登場人物の名前が頭に入らないこともあります。美術館で高く評価されている絵を見ても「うーん、よく分からない」と思うこともあります。つまり名作であることと、自分にとって分かりやすいことは別なのです。
だから、ラフマニノフの『チェロ・ソナタ』を聴いて途中で意識を失いそうになったからといって、「私はクラシック音楽を理解できない人間なのだ」と落ち込む必要はないのでしょう。単に私の耳にとって、A→A'→A''→A'''が長すぎるだけなのです。そして今日もラフマニノフは、こちらが寝てしまったことなどまったく気にせず、ロシアの大地から湧き出てきたような美しい旋律を延々と奏で続ける。
「いや、もうちょっと展開してくれませんか」
と言いたくなる私と、
「これがいいんだよ」
と言っているラフマニノフ。たぶん、両者の間には永遠に埋まらない溝があるのでしょう。
でも、そういう「名作なのに自分にはどうしても分からない」という作品があるのも、クラシック音楽を聴く面白さなのかもしれません。
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