世の中には大量の本があります。毎日たくさんの本が出版されるので、読む本よりも発売される本のほうが圧倒的に多いです。こうなってくると読んだ本よりも読めなかった本のほうがずっと多いことになります。
でも読めなかった本のほうが多くても心配することはありません。何しろ10年後にも読まれている本、つまり読者から10年にわたって読みつがれた本というのはごくわずか。それ以外の本というのは、いわば淘汰されてしまった存在です。社会的に「つまんない」と認定されてしまったわけです。そういう本は読む必要がありませんし、そもそも私たちの目に止まることもほとんどないでしょう。
それ以外にも、一応売れてはいるものの「つまんない」と思える本があります。
私の場合、話に具体性がまるでない本が「つまんない」です。たとえば「最近では人に対して謝ることができない人が増えている」という主張が書かれていたとします。私はここでひっかかります。「増えているというからには、昔は謝罪できる人が多かったのだろう。でもそのことを裏付ける証拠があるのだろうか」。そんな疑問が浮かびます。
一応その疑問を抑えて読み進めます。しかし証拠が出てこない。そうなると「増えている」というのはただの著者の肌感覚でしかなかったのでしょうか。それとも著者が言いたいことを何が何でも主張するために「増えている」と勝手に断定してしまったのでしょうか。調べもしないで「増えている」と捏造したのでしょうか。私ならそう思ってしまうのでした。
私は、世の中のすべての本に統計データや学術論文が必要だと言いたいわけではありません。エッセイなら著者の個人的な感想が書かれていて当然ですし、小説に「その登場人物の行動を裏付ける統計資料を出してください」などと言うのは野暮というものです。問題なのは、個人の感想をあたかも世の中全体の事実であるかのように書いてしまう本です。
「最近の若者は○○するようになった」、「現代人は○○が苦手になった」、「日本人は昔に比べて○○しなくなった」。
こういう文章を見ると、私はそこで立ち止まってしまいます。「で、どれくらい?」と思うのです。
昔は10人中7人がそうしていたのに、今では10人中3人になったという話なのか。それとも著者の周囲にいる人がたまたまそうだっただけなのか。この二つでは意味がまるで違います。ところが、その違いを確認するための数字が出てこない。「私の周囲ではそういう人が増えました」という話なら、私は別に気にしません。それは著者の経験なのだから、著者にしか語れない立派な材料です。
しかし、「世の中ではこういう人が増えている」となると話は変わります。世の中全体について語るのであれば、それなりの根拠が欲しくなります。有料の本なら特に。私は本を読むとき、著者の意見そのものよりも、「その意見は何を材料にして作られたのだろう」と考えてしまうようです。
たとえば「人はお金を持つほど幸せになるわけではない」という話が書いてあったとします。これは直感的には分かる話です。お金だけでは人生のすべてを解決できません。しかし、そこで「だから年収800万円を超えると幸福度は上がらなくなる」と書かれていたら、私は急に身を乗り出します。「おお、それはどこの調査ですか?」となるわけです。
そして調査が出てくれば、「なるほど、そういう研究があるのか」と納得できます。逆に何の根拠もなく著者が適当に書いているだけなら、「なんだ、あなたの感想だったのか」となります。
本を読むというのは、著者の話を聞くことです。だからといって、著者の言うことを全部信じなければならないわけではありません。むしろ面白い本ほど、「本当にそうなのか?」とこちらに考えさせてくれます。
「なるほど、そんな見方があるのか」「それは知らなかった」「では、この数字はどうやって出したのだろう」「この人は反対意見についてどう考えているのだろう」・・・。そうやって自分の頭が動き始める本は、読んでいて楽しいものです。
反対に、最初から最後まで著者が「世の中はこうです」「人間とはこういうものです」と断定し続けるだけの本は、だんだん読むのがしんどくなります。
こちらとしては、「いや、それはあなたがそう思っているだけでは?」と嫌気が差してきます。本はたくさんあります。あまりにもたくさんあるので、全部読むことなど最初から不可能です。だったら私は、読めなかった本の数を気にするより、「これは最後まで読んでよかった」と思える本に出会うことを大切にしたい。本棚に並ぶ本を全部読破する必要なんてありません。内容が充実した本を少しずつ拾っていけばいい。
大量に出版される本の海を前にして、読めなかった本を悔やむ必要はないのです。どうせ人生は一冊の本を読み終えるたびに、また何千冊、何万冊という「読めない本」が目の前に現れるのですから。むしろ問題なのは、読めないことではありません。「つまらない本を、つまらないと思いながら最後まで読んでしまうこと」です。これは時間の無駄です(いわゆるサンクコストです)。本は逃げませんが、人生の残り時間は逃げていきます。だったら「これは違うな」と思った本は、さっさと閉じて次の本へ行ってしまえばいいでしょう。世の中には、まだ読んでいない面白い本が多すぎるのですから。
「最近の若者は○○するようになった」、「現代人は○○が苦手になった」、「日本人は昔に比べて○○しなくなった」。
こういう文章を見ると、私はそこで立ち止まってしまいます。「で、どれくらい?」と思うのです。
昔は10人中7人がそうしていたのに、今では10人中3人になったという話なのか。それとも著者の周囲にいる人がたまたまそうだっただけなのか。この二つでは意味がまるで違います。ところが、その違いを確認するための数字が出てこない。「私の周囲ではそういう人が増えました」という話なら、私は別に気にしません。それは著者の経験なのだから、著者にしか語れない立派な材料です。
しかし、「世の中ではこういう人が増えている」となると話は変わります。世の中全体について語るのであれば、それなりの根拠が欲しくなります。有料の本なら特に。私は本を読むとき、著者の意見そのものよりも、「その意見は何を材料にして作られたのだろう」と考えてしまうようです。
たとえば「人はお金を持つほど幸せになるわけではない」という話が書いてあったとします。これは直感的には分かる話です。お金だけでは人生のすべてを解決できません。しかし、そこで「だから年収800万円を超えると幸福度は上がらなくなる」と書かれていたら、私は急に身を乗り出します。「おお、それはどこの調査ですか?」となるわけです。
そして調査が出てくれば、「なるほど、そういう研究があるのか」と納得できます。逆に何の根拠もなく著者が適当に書いているだけなら、「なんだ、あなたの感想だったのか」となります。
本を読むというのは、著者の話を聞くことです。だからといって、著者の言うことを全部信じなければならないわけではありません。むしろ面白い本ほど、「本当にそうなのか?」とこちらに考えさせてくれます。
「なるほど、そんな見方があるのか」「それは知らなかった」「では、この数字はどうやって出したのだろう」「この人は反対意見についてどう考えているのだろう」・・・。そうやって自分の頭が動き始める本は、読んでいて楽しいものです。
反対に、最初から最後まで著者が「世の中はこうです」「人間とはこういうものです」と断定し続けるだけの本は、だんだん読むのがしんどくなります。
こちらとしては、「いや、それはあなたがそう思っているだけでは?」と嫌気が差してきます。本はたくさんあります。あまりにもたくさんあるので、全部読むことなど最初から不可能です。だったら私は、読めなかった本の数を気にするより、「これは最後まで読んでよかった」と思える本に出会うことを大切にしたい。本棚に並ぶ本を全部読破する必要なんてありません。内容が充実した本を少しずつ拾っていけばいい。
大量に出版される本の海を前にして、読めなかった本を悔やむ必要はないのです。どうせ人生は一冊の本を読み終えるたびに、また何千冊、何万冊という「読めない本」が目の前に現れるのですから。むしろ問題なのは、読めないことではありません。「つまらない本を、つまらないと思いながら最後まで読んでしまうこと」です。これは時間の無駄です(いわゆるサンクコストです)。本は逃げませんが、人生の残り時間は逃げていきます。だったら「これは違うな」と思った本は、さっさと閉じて次の本へ行ってしまえばいいでしょう。世の中には、まだ読んでいない面白い本が多すぎるのですから。
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