Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』第30巻。この巻では奏がケレスを踊り、喝采を浴びるところから始まります。そして『ドン・キホーテ』の夢の場、『真夏の夜の夢』、新演出の『くるみ割り人形』と様々な役柄に抜擢され、成長が加速してゆく様子が描かれます。

他方で、奏とニコルズ先生の関係もまた少しずつ変わりつつあるようです。まず「あなたの友達のことね 伝えといて アビーに手綱を握られるなって」という台詞が出てきます。この後に展開される物語の予兆となるかのような言葉です。現に第30巻の終盤では、ファビオラが「あの人(ニコルズ)とは距離を置いたほうがいい 毒だよ あの人のせいで 有望な仲間が潰れるのはもう見たくない」と忠告します。彼女に言わせると、お気に入りの生徒二人を競争させ、プライベートにも入り込んで距離を縮め、やがては生徒をコントロール下に置いてしまうとか。

奏はその話を聞いたうえで、まだ吸収しきってないということを理由にその忠告を退けています。
この忠告が正鵠を射たものなのかどうかは、続きを読んでみないと分かりません。これはあくまでも「当事者Aの意見」であって、「当事者Bの意見」は別のものである可能性も十分ありえます。ましてや意見を述べているのは若い(人生経験の浅い)学生なのですから。

競争させようとする、と言われてしまったニコルズ先生の指導方法も、「競争相手でありながら仲間」という関係になるのですから悪いとは言い切れないでしょう。これは、うまくいけば二人の成長を促します。自分一人で練習しているよりも、すぐ近くに自分と同じくらいのレベルの人がいて、その人が上達していくほうが刺激になります。「あの人ができるのなら、自分もできるようになりたい」と思うからです。

他方で、この仕組みにはかなり危ういところがあります。それは、二人の競争そのものを教師がコントロールできてしまうことです。Aさんを頑張らせたいときにはBさんを優遇する。Bさんを頑張らせたいときにはAさんを優遇する。そうすると二人とも、「次は自分が評価されるかもしれない」と期待するようになります。しかも、いつも優遇されるわけではありません。今日はAさん、次はBさんという具合に、優遇される側が入れ替わります。

これは人間心理から考えると、なかなか強力です。これが作中における「シーソーみたいに」という指摘につながるのかもしれません。毎回何らかの報酬(たとえば大役の抜擢)がもらえるなら、「今回はもらえなかったから、もういいや」となります。しかし、いつご褒美がもらえるのか分からない状態だと、「次こそは」と思ってしまいます。

そのため、教師からすれば二人を非常に強く動かせることになります。さらに面白いのは、二人がお互いに便宜を図るようになることです。
AさんはBさんに助けてもらう。BさんもAさんに助けてもらう。すると二人はライバルでありながら、互いに相手を必要とするようになります。ここまで来ると、教師は二人を直接つなぎ止める必要すらありません。AさんとBさんがお互いに依存する関係を作ってしまえば、それによって二人とも教師の作った環境から離れにくくなるからです。

もちろん、これをすべて悪いことだと言うつもりはありません。教師が生徒同士を競わせること自体は、珍しいことではありません。スポーツでも音楽でも、身近なライバルの存在が上達の大きな原動力になることがあります。

問題は、その競争が誰のためのものなのかということです。「二人とも自分自身の限界を超えるために競争する」のなら、教育として健全でしょう。しかし、「Aを使ってBを動かし、Bを使ってAを動かす」という状態になるのであれば、話は別です。この場合、二人は自分の意思で競争しているように見えて、実は教師が作ったゲームの中で動かされていることになります。

しかも本人たちは、それに気づかないことがあります。
「私はBさんに負けたくない」「でもBさんには助けてもらっている」「先生には認めてもらいたい」「今度は私が優遇されるかもしれない」・・・、そんな感情が複雑に絡み合ってくるからです。

そして、このような関係が本当に教育として成功しているのかを判断するには、教師がいなくなったときに二人がどうなるのかを見るのが一番分かりやすいと思います。

教師がいなくなっても、「もっと上手くなりたい」と思って練習を続けられるのであれば、それは良い指導だったのでしょう。しかし、教師からの評価がなくなった途端に競争する理由もなくなり、相手が自分より優遇されているかどうかばかり気になるようになったのであれば、少し問題があります。

それは生徒が自律的に成長したというより、教師の評価システムに依存してしまったということだからです。結局のところ、競争させることそのものが悪いのではありません。競争を利用して生徒の能力を引き出すことには、確かに合理性があります。

ただし、競争と人間関係を教師が巧妙に操作し始めると、教育と支配の境界が非常に曖昧になります。
お気に入りの二人は、教師から特別扱いされているという恩恵を受けています。しかし同時に、教師が作ったシーソーゲームから抜け出しにくくなっているのです。そこが、このような指導方法の一番興味深いところであり、同時に一番怖いところなのだと思います。

以上は、ニコルズ先生がそのような指導をしていたに違いない、ということが言いたいのではなく、あくまでもそのような指導スタイルだと、こうした環境が形成される「可能性がある」ということを論じてみたものです。

ではこの作品における当事者=奏はどうでしょうか。それは「全部吸収しきってない」という台詞に心境が現れていると思います。優秀な若者は、やがては独り立ちするタイミングがやって来ます。指揮者・小澤征爾さんも師・齋藤秀雄のもとを巣立って(齋藤秀雄自身は彼をアシスタントとして置いておきたかったらしいのですが)単身フランスに渡り、その後ミュンシュ、バーンスタイン、カラヤンといった大指揮者からの指導を仰ぎつつ、自らもまた指揮者としてのキャリアを進化させていきます。奏の「全部吸収しきってない」は、「やがては独り立ちする時期が来るだろうけど、今はまだそのタイミングではない。もっと学んでからだ」というニュアンスが入り混じっているだろう、と読むのは考えすぎでしょうか。

というわけで物語は次の巻へ続くのでした・・・。