誰しも、「これは苦手だな・・・」と思える作曲家または作品があるはずです。意外なことに、バロック音楽研究で有名な皆川達夫先生はヴィヴァルディの作品とくに『四季』が苦手でした。ご自身の著作のなかでその楽天性を指摘し、ヴィヴァルディを聴くよりもむしろ折り目正しいアルビノーニのほうが良いと述べておられました。
私の場合、どうにもこうにもプロコフィエフの作品が苦手です。バレエ音楽『ロミオとジュリエット』はまだいいほうです。これは踊りと一体化することによって、なぜこの瞬間にこういう音楽が鳴るべきか、ということが手に取るように分かります。あの独特なヒンヤリとした雰囲気も良いと思います。
しかし『交響曲第5番』。これは一体、といつも思います。『交響曲第5番』は一体、何を描こうとしているのだろう、といつも思います。
もちろん、これは作品の価値を否定しているわけではありません。現にこの作品は20世紀交響曲の傑作として高く評価され、演奏会でも頻繁に取り上げられています。私の耳が追いついていないだけなのかもしれません。しかし何度聴いても、私の中では一本の線につながらないのです。
私が音楽に求めているものは、ある種の「必然性」です。ベートーヴェンであれば、あの音の次にはこの音が来るしかないという強烈な論理があります。ブラームスには建築物のような構築美があります。バッハに至っては、一つひとつの音が精巧な歯車となり、巨大な時計を動かしているかのようです。
ところがプロコフィエフは、その論理がどうも私には見えません。
旋律は突然現れ、突然姿を消します。和声も思いがけない方向へ飛び、リズムも絶えず落ち着くことを拒みます。もちろん、それこそが彼の個性であり、魅力なのでしょう。しかし私は音楽を聴きながら、「なぜ今ここで、この音なのか」を知りたい人間なのです。その問いに対する答えが見つからないまま、40分近い時間が過ぎてしまいます。
これは美術に例えるなら、抽象画を前にしたときの感覚に近いかもしれません。「感じればいい」と言われても、私はつい構図や遠近法やモチーフを探してしまうのです。
思えば、私の好みは昔から一貫しています。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス。多少時代は違っても、「秩序」という共通点があります。形式があり、均衡があり、聴き手をどこへ連れて行こうとしているのかが見える音楽です。私はそういう作品を聴くと安心します。
一方、プロコフィエフのこの作品は、まるで濃霧の中を歩いているようです。目の前に巨大な建造物があることは分かる。しかし全貌は最後まで見えない。そのもどかしさが、私には「難解」という印象になってしまうのでしょう。
もっとも、これは作品が悪いという話ではありません。人間には相性があります。文学でも夏目漱石が好きな人もいれば、ドストエフスキーに人生を変えられたという人もいます。音楽も同じです。傑作だから好きにならなければならない、という義務はありません。
ひょっとするとかなり後になって、「あの頃は何が分からなかったのだろう」と思う日が来るかもしれません。それもまた音楽を聴き続ける楽しみなのでしょう。今の私にとってプロコフィエフの『交響曲第5番』は、まだ登ることのできない山です。しかし、だからこそ時々ふもとまで行っては眺めてみたくなる。不思議な魅力を持った作品であることだけは間違いありません。
もちろん、これは作品の価値を否定しているわけではありません。現にこの作品は20世紀交響曲の傑作として高く評価され、演奏会でも頻繁に取り上げられています。私の耳が追いついていないだけなのかもしれません。しかし何度聴いても、私の中では一本の線につながらないのです。
私が音楽に求めているものは、ある種の「必然性」です。ベートーヴェンであれば、あの音の次にはこの音が来るしかないという強烈な論理があります。ブラームスには建築物のような構築美があります。バッハに至っては、一つひとつの音が精巧な歯車となり、巨大な時計を動かしているかのようです。
ところがプロコフィエフは、その論理がどうも私には見えません。
旋律は突然現れ、突然姿を消します。和声も思いがけない方向へ飛び、リズムも絶えず落ち着くことを拒みます。もちろん、それこそが彼の個性であり、魅力なのでしょう。しかし私は音楽を聴きながら、「なぜ今ここで、この音なのか」を知りたい人間なのです。その問いに対する答えが見つからないまま、40分近い時間が過ぎてしまいます。
これは美術に例えるなら、抽象画を前にしたときの感覚に近いかもしれません。「感じればいい」と言われても、私はつい構図や遠近法やモチーフを探してしまうのです。
思えば、私の好みは昔から一貫しています。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス。多少時代は違っても、「秩序」という共通点があります。形式があり、均衡があり、聴き手をどこへ連れて行こうとしているのかが見える音楽です。私はそういう作品を聴くと安心します。
一方、プロコフィエフのこの作品は、まるで濃霧の中を歩いているようです。目の前に巨大な建造物があることは分かる。しかし全貌は最後まで見えない。そのもどかしさが、私には「難解」という印象になってしまうのでしょう。
もっとも、これは作品が悪いという話ではありません。人間には相性があります。文学でも夏目漱石が好きな人もいれば、ドストエフスキーに人生を変えられたという人もいます。音楽も同じです。傑作だから好きにならなければならない、という義務はありません。
ひょっとするとかなり後になって、「あの頃は何が分からなかったのだろう」と思う日が来るかもしれません。それもまた音楽を聴き続ける楽しみなのでしょう。今の私にとってプロコフィエフの『交響曲第5番』は、まだ登ることのできない山です。しかし、だからこそ時々ふもとまで行っては眺めてみたくなる。不思議な魅力を持った作品であることだけは間違いありません。
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