「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

これは夏目漱石の『こころ』のあとある一節です。人はお金があるから生活できます。家賃を払ったり納税したり光熱費を払ったり食事したり。物々交換の時代ではないので、貨幣つまりお金がなければ生活が行き詰まります。

他方であらゆる不幸をもたらすツールになることもあります。もっと稼ごうと思った結果株価が釣り上がり、それぞれが勝手に利益を確定しようとして売りに走り、その売りがさらなる売りを呼びバブル崩壊へ、なんていうパターンを人類は何度繰り返したことでしょう。もっとも私もこのブログで「資産運用」なんていうカテゴリを設けているのですが・・・。

「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」には様々なニュアンスが込められており、どのニュアンスを高く評価するかは読者次第でしょう。汚職事件を思い出す人もいれば、巨万の富を築きながらも社会貢献事業にその富を活用した人もいるでしょう。


漱石が『こころ』を書いたのは明治末期です。しかし、この一節が百年以上を経た現代でも色あせないのは、人間の本質がそれほど変わっていないからでしょう。

興味深いのは、漱石が「金は悪だ」と言っているわけではないことです。お金そのものには善も悪もありません。1万円札は、慈善団体への寄付にも使えますし、詐欺の利益にも使えます。包丁が料理人の手にあれば食事を生み出し、犯罪者の手にあれば凶器になるように、お金もまた使う人の心を映す道具なのです。

ただし、お金には他の道具にはない特徴があります。それは「人の欲望を増幅させる」という点です。生活に必要な10万円を得ることと、すでに十分な資産があるにもかかわらず、さらに1億円を目指すこととは本質的に異なります。前者は生活のためですが、後者は競争や優越感、あるいは「もっと」という終わりのない欲求に支えられていることが少なくありません。

経済学には「限界効用逓減」という考え方があります。1万円を持っていない人にとっての1万円と、1億円を持っている人にとっての1万円では価値が違うという考え方です。幸福についても似たようなことが言われます。生活に困らない程度の収入までは幸福度は上がりやすいものの、それを超えると収入が増えても幸福度は緩やかな伸びになるという研究結果が数多く報告されています。それでも人は「もう少しあれば」と考えてしまう。この心理こそが、漱石の言う「悪人になる」入り口なのかもしれません。

むろん、資産形成や投資そのものを否定するつもりはありません。老後に備え、家族を守り、不測の事態に対応するための貯蓄や投資は、現代社会ではむしろ合理的な行動です。私自身も資産運用について記事を書いていますし、お金に働いてもらうという発想は決して間違いではないでしょう。しかし、ときどき立ち止まって自分に問いかける必要があります。「私はお金を使っているのか。それとも、お金に使われているのか」と。

株価が毎日気になって仕事が手につかない。利益が出ても満足できず、損失が出れば眠れない。資産額だけが自分の価値を決める尺度になってしまう。こうした状態では、お金は便利な道具ではなく、人を支配する主人になってしまいます。

『こころ』のKは理想を追い求め、先生は罪悪感を背負って生きました。作品全体を通して描かれているのは、お金だけではなく、人間の心の弱さです。だからこそ、「金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」という一節は、お金への警戒というより、「人間は自分の欲望を過信してはいけない」という戒めとして読むこともできるでしょう。

お金は人生を豊かにするための手段です。目的になった瞬間、人は本来守るべきものを見失うことがあります。百年以上前に漱石が残したこの短い言葉は、キャッシュレス決済や暗号資産、AIが当たり前になった現代においても、私たちに静かに問いを投げかけ続けているように思います。