ミケランジェロの大作「アダムの創造」は映画『E.T.』の指先で有名です。いや、『E.T.』がミケランジェロのポーズをしているので有名になったと言ったほうがよいのでしょうか。

Creación_de_Adán

この作品はヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描いたフレスコ画の一部で1511年ごろの作品です。旧約聖書の『創世記』に記された神が、最初の人類すなわちアダムに生命を吹き込む場面を表現しているとされています。

この構図をよく見ると、ミケランジェロは結局何が描きたかったのかが伝わってきます。
アダムの力強さ? 違います。
神の力? 違います。
神がうしろにしもべを連れているので、神は偉いんだってこと? それも違います。

どうやら指先をいちばん強調したかったようですね、ミケランジェロは。

なにしろ画面の中央に指が配置されています。中央なら本来は主人公が位置するところであって、そこに指を置いたのは意図的なものと見るべきでしょう。なおかつ背景には何も描かれておらず、シンプルに空が広がっているだけ。下手に背景を描くと指が目立たなくなりありがたみもなくなるので、何も書かないことで指に視線が集中するようにした、というわけですね。

この「指」が面白いのは、実は触れているように見えて接触していないことです。

多くの人は初めてこの作品を見ると、「神がアダムに触れて生命を与えている場面」だと思い込みます。しかし、よく観察すると両者の指先にはわずかな隙間があります。このほんの数センチほどの空白こそが、この作品の核心ではないでしょうか。

もし指と指がぴったり接触していたらどうでしょう。生命が神からアダムへ流れ込む瞬間を描いた、ごく分かりやすい宗教画になっていたはずです。しかしミケランジェロは、あえて接触させませんでした。

すると不思議なことが起こります。鑑賞者は思わずその隙間を見つめ、「あと少し」「もう触れる」という緊張感を味わうことになります。静止画であるにもかかわらず、まるで次の一瞬が存在するかのような時間の流れが生まれるのです。うまいですね。

映画でも、決定的な場面をすべて見せてしまうより、「このあとどうなるのか」と観客に想像させるほうが印象に残ることがあります。ミケランジェロも同じことを五百年以上前にやっていたのかもしれません。さらに興味深いのは、神とアダムの姿勢です。

神は勢いよく飛来し、腕をいっぱいに伸ばしています。一方のアダムは地面にもたれかかり、まだ完全には目覚めていないような姿です。両者のエネルギーには大きな差があります。その差が、あとわずかな距離を残した指先によって象徴されているようにも見えます。つまり、この絵の主役は神でもアダムでもなく、「生命が生まれる瞬間そのもの」なのです。

だからこそ、ミケランジェロは人物の顔よりも、豪華な背景よりも、画面のど真ん中に二本の指を置いたのでしょう。見る者の視線を一点に集め、その一瞬の奇跡を何百年経っても感じ取れるように設計したのです。

その証拠に、この作品を知らない人でも、二本の指が近づくシルエットだけを見ると「ああ、あの絵だ」と気づく人が少なくありません。映画『E.T.』があの名場面をオマージュとして取り入れたのも、単に構図が美しいからではなく、「触れそうで触れない」という緊張感が誰にでも直感的に伝わる普遍的な表現だったからでしょう。

ルネサンス時代に描かれた一枚のフレスコ画が、現代の映画や広告、ポスター、さらにはインターネット上のパロディにまで引用され続けている。その理由は、宗教的な知識の有無ではありません。人間は「あと少し」という距離に、無意識のうちに意味を見出してしまう生き物だからです。

ミケランジェロは、神を描いた画家であると同時に、人間の視線と心理を知り尽くした演出家でもありました。そして『アダムの創造』とは、生命誕生の物語である以前に、「人はどこを見るのか」を計算し尽くした、きわめて現代的なデザインでもあるのです。