夏目漱石の作品はたくさんあります。『虞美人草』『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『門』『こころ』それに未完に終わった『明暗』。このほかにもいくつかの小説を残しています。実際に読んでみると、あることに気づくでしょう。そう、作品ごとに文体が違うのです。

『虞美人草』は、なんじゃこりゃと思うような美文調で、現代人の感覚からしてみれば読みにくいことこのうえありません。よほどこの作品を読んでみたいと思うモチベーションがないと、投げ出してしまうこと間違いなし。私はあるとき図書館でこれを読んでいて、ふと視線を上げると向こうの本棚に『名探偵コナン』がずらりと並んでいて、「コナン読んだほうがぜったい面白いよな・・・」と思いました。

『吾輩は猫である』は猫の視点から人間を批評するといったもの。『坊っちゃん』は主人公(東京出身)の目線で愛媛の人々を観察しているところに特徴があります。しかし作品ごとに文体が違うというのはどの作品も最初のページだけでも読んでみると分かる話です。

どうして夏目漱石は作品ごとに文体を変えていったのでしょうか? おそらく漱石が「文体を持たない作家」だったから・・・ではありません。むしろ逆です。文体というものを自在に操ることができたからこそ、作品ごとに最もふさわしい文章を選び取っていたのです。

一般に作家には「その人らしい文体」があります。川端康成を読めば川端らしく、太宰治を読めば太宰らしい。数ページ読めば作者が分かるほど特徴がある作家も少なくありません。しかし漱石の場合、その「らしさ」は文章の表面にはあまり現れません。作品によって、まるで別人が書いたような印象さえ受けます。

これは、それぞれの小説が求める「語り方」が違うからでしょう。たとえば『吾輩は猫である』は、猫が人間社会を冷静に眺めるという設定です。だから文章には、皮肉やユーモア、知識人らしい衒学趣味がふんだんに盛り込まれています。猫だからこそ、人間の滑稽さを一歩引いた位置から笑うことができるのです。

『坊っちゃん』は全く異なります。主人公は江戸っ子気質で、思ったことをすぐ口にする青年です。文章も歯切れがよく、理屈より勢いで読ませます。もし『虞美人草』のような美文調で「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」を語ったなら、坊っちゃんらしさは一瞬で失われてしまうでしょう。

さらに『三四郎』になると、文章はぐっと静かになります。東京へ出てきた青年が、何を見ても新鮮に感じ、戸惑いながら成長していく。その揺れ動く心理を描くためには、『坊っちゃん』のような勢いよりも、少し立ち止まって考えるようなリズムが必要になります。

そして『それから』『門』『こころ』へと進むにつれて、漱石の関心は社会の出来事よりも、人間の内面へと向かっていきます。派手な事件は少なくなり、その代わり登場人物の心の動きが細やかに描かれるようになります。文体もまた、それに合わせて無駄な装飾を削ぎ落とし、一文一文が心理を掘り下げるための道具へと変化していくのです。

未完に終わった『明暗』では、その傾向はさらに徹底されます。会話や何気ないしぐさの中から、人間関係の微妙な駆け引きや心理が浮かび上がる。初期の漱石を知っている人ほど、「本当に同じ作家なのか」と驚かされるはずです。

つまり、漱石は作品を書くたびに新しい文体を試していたというより、「この物語を最も生き生きと見せるには、どんな言葉で語るべきか」を徹底して考えていたのでしょう。主人公が変われば、世界の見え方も変わる。世界の見え方が変われば、文章も変わる。それは単なる文章技術ではなく、小説という芸術そのものへの深い理解があったからこそ可能だったのではないでしょうか。

だからこそ、漱石作品は一冊読んだだけでは分かった気になれません。『坊っちゃん』だけを読んで「漱石とはこういう作家だ」と思っている人は、『こころ』を開けば驚くでしょう。逆に『こころ』しか読んでいない人が『吾輩は猫である』を読めば、そのユーモアの豊かさに面食らうはずです。作品ごとに異なる顔を見せながら、どれも紛れもなく「夏目漱石」である・・・、そこに、近代日本文学を代表する作家の懐の深さがあるのです。