以前暮らしていたマンションの玄関に三毛猫が住み着いていました。私も含めて、マンションに暮らす皆さんでなでなでしたり餌をあげたりしていました。
そういえば昔は野良犬をよく見かけたものですが、いつの間にかまったくと言って良いほど見かけなくなりました。でも野良ねこというのは今もたくさんいます。公園とかに行くとけっこう見かけますよね。そんななかの一匹がいつの間にかマンションに住み着いた、というわけでした。
このマンションに暮らす人が言うには、「人に馴れるのに3年くらいかかった。最初はものすごく警戒心が強かった」と言っていました。ということは私がそこへ引っ越すより前に玄関に定着して、警戒心が強い割には(みんなが餌をくれるから?)ずっとそこにいたということなのでしょう。
それにしてもなぜ私も含めてねこを見かけるとなでなでしたくなるのでしょうか。
考えてみると、これは少し不思議なことです。街で見知らぬ人を見かけても、肩をたたいて「こんにちは」と声をかけようとは思いません。野生のカラスやハトを見ても、わざわざ触れたいとは感じません。しかし、ねこだけは違います。遠くに姿を見つけると、「近づいてくれないかな」「なでても大丈夫かな」と期待してしまいます。
もちろん、すべての人がそうではないでしょう。しかし、多くの人が似たような感覚を持っているからこそ、私が住んでいたマンションでも住民の皆さんが代わる代わる世話をし、気づけば一匹の野良ねこが「マンションのねこ」と呼ばれる存在になっていたのでしょう。
その理由の一つは、ねこが「完全な野生動物」でも「完全な家畜」でもない、独特の距離感を持つ動物だからだと思います。
犬は古くから人間の命令に従い、一緒に狩りをするパートナーとして暮らしてきました。一方、ねこは人間に飼われるようになっても、自分の意思で近づき、自分の意思で離れていきます。呼んでも来ないこともありますし、機嫌が悪ければ相手にもしてくれません。だからこそ、こちらに歩み寄ってきてくれたときには、「選んでもらえた」という気持ちになるのです。(ちなみにねこが家畜化されたのは他の動物とくらべるとかなり遅く、古代エジプトが初だそうです。そしてエジプトではねこが神聖な生き物として崇められるようになりました。)
実際、私が暮らしていたマンションの三毛猫もそうでした。普段は玄関先で寝転んでいても、近づく人は自分で選んでいるように見えました。初対面の人には距離を置きますが、何度も顔を合わせた住民には自分からすり寄ってくることもあります。その絶妙な距離感が、人間の「もっと仲良くなりたい」という気持ちを刺激するのでしょう。
こうした「町のねこ」は、実は昔から人々に親しまれてきました。
江戸時代末期の深川には、「まめすけ」と呼ばれたねこがいたことが伝えられています。特定の家に飼われているというよりも、町の人たち皆にかわいがられた存在で、商人や子どもたちから餌をもらいながら自由に町を歩き回っていたそうです。その姿は当時の人々にも愛され、深川の名物のように語られました。
考えてみれば、私が暮らしていたマンションの三毛猫も、令和版の「まめすけ」だったのかもしれません。所有者は誰なのかよく分からない。それでも住民みんなが気にかけ、姿が見えない日は「今日はいないね」と話題になる。誰か一人のねこではなく、「地域のみんなのねこ」として受け入れられていたのです。
近年はペットを室内で飼うことが当たり前になり、地域で自由に暮らすねこは減ってきました。野良ねこを取り巻く環境も決して楽ではなく、無責任に餌を与えることにはさまざまな問題もあります。それでも、人がねこを見つけると自然と笑顔になり、手を伸ばしたくなる気持ちは、昔も今もあまり変わっていないように思います。
もちろん、すべての人がそうではないでしょう。しかし、多くの人が似たような感覚を持っているからこそ、私が住んでいたマンションでも住民の皆さんが代わる代わる世話をし、気づけば一匹の野良ねこが「マンションのねこ」と呼ばれる存在になっていたのでしょう。
その理由の一つは、ねこが「完全な野生動物」でも「完全な家畜」でもない、独特の距離感を持つ動物だからだと思います。
犬は古くから人間の命令に従い、一緒に狩りをするパートナーとして暮らしてきました。一方、ねこは人間に飼われるようになっても、自分の意思で近づき、自分の意思で離れていきます。呼んでも来ないこともありますし、機嫌が悪ければ相手にもしてくれません。だからこそ、こちらに歩み寄ってきてくれたときには、「選んでもらえた」という気持ちになるのです。(ちなみにねこが家畜化されたのは他の動物とくらべるとかなり遅く、古代エジプトが初だそうです。そしてエジプトではねこが神聖な生き物として崇められるようになりました。)
実際、私が暮らしていたマンションの三毛猫もそうでした。普段は玄関先で寝転んでいても、近づく人は自分で選んでいるように見えました。初対面の人には距離を置きますが、何度も顔を合わせた住民には自分からすり寄ってくることもあります。その絶妙な距離感が、人間の「もっと仲良くなりたい」という気持ちを刺激するのでしょう。
こうした「町のねこ」は、実は昔から人々に親しまれてきました。
江戸時代末期の深川には、「まめすけ」と呼ばれたねこがいたことが伝えられています。特定の家に飼われているというよりも、町の人たち皆にかわいがられた存在で、商人や子どもたちから餌をもらいながら自由に町を歩き回っていたそうです。その姿は当時の人々にも愛され、深川の名物のように語られました。
考えてみれば、私が暮らしていたマンションの三毛猫も、令和版の「まめすけ」だったのかもしれません。所有者は誰なのかよく分からない。それでも住民みんなが気にかけ、姿が見えない日は「今日はいないね」と話題になる。誰か一人のねこではなく、「地域のみんなのねこ」として受け入れられていたのです。
近年はペットを室内で飼うことが当たり前になり、地域で自由に暮らすねこは減ってきました。野良ねこを取り巻く環境も決して楽ではなく、無責任に餌を与えることにはさまざまな問題もあります。それでも、人がねこを見つけると自然と笑顔になり、手を伸ばしたくなる気持ちは、昔も今もあまり変わっていないように思います。

私も東京を離れる日、最後にマンションを出る前、その三毛猫をしばらくなでていました。ねこはいつものように気持ちよさそうに目を細めるだけで、私が引っ越すことなど知る由もありません。でも、それでいいのでしょう。人間の事情に振り回されず、今日も玄関先でのんびり昼寝をしている。その変わらない姿こそが、多くの人を引きつけ、「また会いたい」と思わせる、ねこという生き物の不思議な魅力なのだと思います。
ところで、私がしょっちゅうねこをなでなでして話しかけたりしているので、マンションの大家さんからは「あなた、人と会って騒いだりするのが好きじゃないんでしょう」と言われました。大家さんとは毎日会話しているわけではないのですが、ねこに話しかける様子で私の性格がなんとなく分かってしまったのでしょうね。

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