雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)というのをご存知でしょうか。といってもご存知ではない方のほうが多いでしょう。私も最近知りました。知った、そして実際に訪問してみたその次の週には東京を引っ越してしまいました。そのため、最初で最後の訪問になりました。



雑司ヶ谷霊園からそう遠くない住宅街に佇むこの宣教師の館。
豊島区の公式サイトによると、
雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものです。マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。

また、当時の新興住宅地における布教活動と幼児教育の拠点としての意味を持っていたことを地域の人が記憶しており、昭和62年9月1日に、豊島区の登録有形文化財として登録し、その後、特に重要な文化財として保存、活用をさらに進めるため、平成4年11月10日に、指定文化財としました。その後、平成11年3月3日、東京都指定有形文化財(「旧マッケーレブ邸」)になりました。

この建物は、木造総2階建て住宅で、細部のデザインにはカーペンターゴシック様式を用いており、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅です。

ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカ・テネシー州ナッシュビル郊外に生まれました。生後6か月で南北戦争により父を失い、以後多くの苦労を重ねながら勉学に励み、敬虔なクリスチャンの青年に成長しました。27歳の時、ケンタッキー州レキシントンにあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで先輩の宣教師アズビルと出会い、彼の勧めによって日本伝道を決意したのです。

1892年、新婚の妻デラらと日本に渡ったマッケーレブは、築地・神田・小石川と伝道活動を展開、そして1907年雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争開戦直前まで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けていったのです。約50年間にわたるマッケーレブの日本での活動は、慈善事業から幼児や青年の教育活動にまで及び、数多くの人々に感銘をあたえるものでした。
実際に訪問してみると、たしかに趣のある戦前の洋館、といった風情であり、旧岩崎邸庭園などが好きだ、という方にとっては一度時間のあるときに訪れてみるとよいでしょう。ただしエアコンは設置されていないので、夏に行くと地獄のような思いをします。絶対に夏は避けてください。

館内に足を踏み入れると、まず印象に残るのは豪華さではなく、生活の気配です。華族の邸宅や財閥の迎賓館とは異なり、ここはあくまでも一人の宣教師が暮らし、地域の人々と向き合った住まいだったことが自然と伝わってきます。住宅街にある建物だからまあそれも当然ですが。磨き込まれた木の床、柔らかな光を取り込む窓、急勾配の屋根を支える木組み。そのどれもが質素でありながら丁寧につくられており、百年以上の時を経た現在でも静かな存在感を放っています。

館内では応接間や書斎、食堂などが公開されており、それぞれの部屋から当時の暮らしを想像することができます。特に印象的だったのは、宗教施設という堅苦しさがほとんど感じられないことでした。ここは教会というよりも「家」であり、その家が地域の人々を迎え入れ、教育や交流の場として機能していたことがよく分かります。

窓の外へ目を向けると、現代の住宅街が広がっています。しかし館内だけは時間がゆっくり流れているようで、明治から昭和初期にかけての空気がそのまま残されているような感覚を覚えました。東京には数多くの文化財がありますが、これほど自然な形で「人が暮らした歴史」に触れられる場所は決して多くありません。

私は東京を離れる直前になって初めてこの建物の存在を知りました。もっと早く訪れていれば、季節ごとの表情も楽しめたのではないかと思います。その一方で、引っ越し前の最後パワー発揮中だったからこそ、この静かな洋館の佇まいがより強く心に残ったようにも感じています。華やかな観光名所ではありませんが、東京という街が歩んできた歴史の一端を静かに伝えてくれる貴重な建物です。近くを訪れる機会があれば、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。