2026年の夏は大阪にフェルメール作品が来ることになっています。かの名作「真珠の耳飾りの少女」が最後の来日を果たすのです。チケットは争奪戦になるということは目に見えています。もし運よくチケットが確保できたとしても、おそらくものすごい混雑で「は~、他人の後頭しか見えねえ~」という結末になるのは目に見えています。私は2025年にオランダで現物を見ています。その時はマウリッツハイス美術館はガラガラで快適でした。名画を見るならやはり現地に限ります。そこまでして見たいかどうかはかなり微妙なところですが。

ところで、ものすごい混雑になったといえば、1974年の「モナ・リザ」の来日。このときは東京国立博物館で展示されており、最終日には上野駅から博物館までものすごい行列だったと伝えられています。展示作品もこれ1枚。それを見るために2時間待ちだったそうです。

ところで、その会場は車椅子の人は入場禁止でした。今では考えられないことです。

もっとも、これは単純に「昔は人権意識が低かった」という一言で片付けられる話ではありません。当時の美術館側には、それなりの事情もありました。1974年の「モナ・リザ」展は社会現象と呼ばれるほどの熱狂を巻き起こし、入館者は連日何万人にも達しました。作品保護のため、鑑賞者は立ち止まることも許されず、ベルトコンベアに載せられた回転寿司のごとく作品の前をチラ見して通過するというスタイルにならざるを得ませんでした。そのような状況では、安全面を考慮して車椅子利用者の入場を断ったという判断も、当時としてはやむを得ないものだったのでしょう。(この方針はのち撤回されました。)

しかし、半世紀が経過した現在では、そのような考え方は通用しません。美術館とは、一部の健常者だけが芸術を楽しむ場所ではなく、年齢や身体能力にかかわらず、誰もが文化に触れることのできる公共空間だからです。バリアフリー化が進み、エレベーターやスロープ、多目的トイレが整備されるようになったのも、その理念が社会に浸透した結果といえます。

一方で、私は「すべての人が平等に入場できれば、それで理想的な美術館である」とも思いません。もう一つ重要なのは、「作品を静かに鑑賞できる環境」を守ることです。

近年の人気展では、展示室が人で埋め尽くされ、作品よりも前の人の頭しか見えないことが珍しくありません。何十分も並び、ようやく作品の前に来ても数秒で流されてしまう。これでは芸術鑑賞というより、人気アトラクションに乗るための行列と大差ありません。

美術館の使命は、できるだけ多くの人を入館させることではなく、一人ひとりに作品と向き合う時間を提供することにあるはずです。もちろん、人気作品には限界があります。しかし、日時指定予約の徹底や入場人数の厳格な管理などによって、「見る権利」と「落ち着いて鑑賞する権利」の両立を図る努力は、これからますます重要になるでしょう。

芸術は、本来ゆっくりと対話するものです。名画の前で立ち止まり、細部を眺め、作者の意図に思いを巡らせる。その時間こそが、美術館でしか得られない体験なのです。多くの人に開かれた美術館であることと、静かに作品と向き合える美術館であること。この二つをどう両立させるか。それこそが、現代の美術館に課せられた最も難しい課題ではないでしょうか。