ヴァイオリンを練習していると、いつかは弾くことになる曲の一つがバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」。といってもアマチュアが全部弾くのは技術的に不可能で、まあ数曲演奏できればいいほうでしょう。私は「シャコンヌ」を弾こうとしてわずか数小節で挫折しました。

あるとき先生からこれをやりなさいよ、と渡されたのが「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番第4楽章、アレグロ・アッサイ」。




そう、アレグロ・アッサイというからにはアンダンテでもアレグレットでもなく、あくまでもアレグロの速度でなければなりません。楽譜だけ見ていると、重音奏法があるわけでもなく、無茶苦茶な音の跳躍があるわけでもなく、「あ、俺でもけっこう行けるじゃない?」と思えてしまいます。

思い違いでした。無理ゲーでした。無理ゲー感満載でした。なぜか。それは「ゆっくりとなら弾くことはできても、アレグロで弾くことはできない」のです。自分がやるとせいぜいアンダンテくらいにしかなりませんでした。辛い・・・。
しかし、ここで面白いことに気がつきました。「弾けない」というのは、単純に指が動かないということではないのです。もちろん技術的な問題はあります。左手の指が正確に動かなければならない。ポジション移動もある。弓もただ上下に動かせばいいわけではなく、速いテンポの中でも音を潰さず、粒を揃えなければなりません。でも、本当の難しさはそこではないような気がします。

バッハのこの曲は、音符の数だけを見ると「意外と少ない」と感じます。伴奏がないので、ピアノ伴奏付きの協奏曲のような派手さもありません。ところが、いざ弾いてみると逃げ場がないのです。ピアノなら伴奏が和声を支えてくれます。オーケストラなら他の楽器が音楽の流れを作ってくれます。しかし無伴奏ヴァイオリンは、自分一人で旋律も和音感もリズムも表現しなければならない。

つまり、ヴァイオリン一本で「音楽そのもの」を作らなければなりません。辛い。アレグロ・アッサイの速さで弾くということは、単純に「速く指を動かす」ことではありません。速いテンポの中でも、どこに向かって音楽が進んでいるのかを理解していなければならない。一つ一つの音を確認しながら「次はこの指、その次はこの指」と考えている段階では、絶対に追いつきません。音楽が先に身体から出てこなければならない。

これはスポーツに少し似ていると思います。野球選手がボールを見てから「右足を出して、腰を回して、腕を振って」と考えていたら絶対に打てません。繰り返し練習して身体に染み込ませる必要がありますよね。ヴァイオリンも同じなのでしょう。ただ、ここで絶望だけでは終わりません。

不思議なことに、昨日まで全く弾けなかった場所が、何日も何週間も練習すると、ある瞬間「あれ?少し動くぞ」となることがあります。(逆に、昔演奏した曲を今演奏しようとすると、全くひどい出来栄えにしかなりませんが。)

昨日まで壁だったものに、突然小さな扉が現れる。これが楽器練習の面白いところです。シャコンヌは数小節で挫折しました。あまりにも巨大すぎる山に見えました。でもアレグロ・アッサイに挑戦してみて、改めて思います。

バッハは「上手な人だけが弾くための音楽」ではなく、「一生かけて向き合うための音楽」なのかもしれません。もちろん、プロのように完璧な速度で演奏できるわけではありません。録音を聴けば、自分の演奏との差に愕然とします。でも、少しずつでも昨日より前に進む。ゆっくりだった部分が少し速くなる。音程が少し安定する。弓の使い方が少し分かる。その小さな変化を楽しむことこそ、アマチュアがバッハに挑む意味なのかもしれません。

いつの日か、このアレグロ・アッサイを「なんとか曲として聴ける形」で弾ける日が来るのか。

今のところは、まだ無理ゲーです。

でも、無理ゲーだからこそ挑戦する価値がある。

少なくとも、数小節で逃げ出したシャコンヌのときよりは、少しだけバッハの入り口に近づいた気がしています。あくまでも入り口なのです。なんだか自分が気の毒に思えてきました。