千手観音ってご存知でしょうか。手が千本あって、一人でマルチタスクをこなすことができる有能な仏。こいつ一人いればすべての仕事を丸投げできるのでありがたいですね。
・・・と思っていたら違いました。人間が抱える悩み、苦しみを救済するためには、手が千本あってもまだ足りない、という意味だそうです。
それはさておき、音楽も真剣に聴こうとしたら耳がいくつあっても足りません。最近吉田秀和の『カラヤン』という本を読みました。これは吉田秀和がカラヤンについての論評を一冊の書籍にまとめたもの。この中で彼はモーツァルトのデイヴェルティメントK.136の冒頭4小節について、たとえばイ・ムジチ合奏団の演奏は「はじめに最高者のイ音に一番力がこめられ、四拍の中で、中央に向かって一つのクレッシェンドをしたあと、ごく控え目にデクレッシェンドしながら嬰ヘ、ニ音と下降してきたあと、小さな渦に入る。これは正に「歌っている主題」としての提示である。音の力はやさしく高まりの流動の中で解消されてゆく。」と述べられています。
文章はこのあと、同じ部分についてウィーン八重奏団の演奏はアクセントの置き方が違っていて・・・、というふうに書き進められています。
いや参りましたね。私は普段そんなふうに細かく音楽を聴いていません。でも真剣に聴こうと思ったらこういう聴き方をしなければいけません。耳がいくつあっても足りません・・・。
しかし、考えてみればこれは音楽に限った話ではありません。絵画でも文学でも、あるいは料理でも同じでしょう。素人が「きれいだな」「おいしいな」と感じるところから先に進もうとすると、そこには無限とも思えるほどの細部が存在しています。
例えばヴァイオリンを弾いていると、それを痛感します。同じ音符を弾いていても、ただ音程とリズムが合っているだけでは音楽になりません。弓の圧力、弓を置く位置、音の立ち上がり、ビブラートの幅、フレーズの方向感。ひとつの音に対しても考えることが山ほどあります。
以前なら「この高音がきれいに当たればいい」と思っていた場所も、最近では「その前の音からどうつながっているのか」「その音はどこへ向かっているのか」と考えるようになりました。すると、楽譜に書かれている一つ一つの音符が、単なる記号ではなく、作曲家からの問いかけのように見えてきます。
もちろん、だからといって毎回吉田秀和のような分析をしながら音楽を聴かなければならない、ということではないでしょう。そんなことをしていたら、音楽を楽しむ前に疲れてしまいます。散歩中にふと聞こえてきたメロディに心を動かされる、昔聴いた曲を久しぶりに聴いて記憶がよみがえる。そういう聴き方も間違いなく音楽の魅力です。
ただ、本当に深く味わおうとすると、そこには果てしない世界が広がっている。そのことを知るだけでも、音楽の聴き方は少し変わります。
千手観音の話ではありませんが、人間の感覚には限界があります。耳が二つしかない以上、同時にすべてを聴き取ることなど不可能です。しかし、だからこそ何度も聴く意味があるのでしょう。
一回目は旋律を聴く。二回目は伴奏を聴く。三回目は音色を聴く。その次は演奏者の呼吸や間を聴く。同じ曲なのに、聴くたびに違うものが見えてくる。
名演奏と呼ばれるものが何十年経っても聴き継がれる理由は、単に「上手だから」ではないのだと思います。一度では聴き尽くせないほど、多くの情報や表情が詰め込まれているからです。
そう考えると、音楽というものは不思議です。たった数分の旋律の中に、演奏者の解釈、作曲家の意図、時代背景、そして聴く人自身の経験まで入り込んでくる。
耳がいくつあっても足りない。でも、足りないからこそ、人は何度も聴き続けるのかもしれません。
例えばヴァイオリンを弾いていると、それを痛感します。同じ音符を弾いていても、ただ音程とリズムが合っているだけでは音楽になりません。弓の圧力、弓を置く位置、音の立ち上がり、ビブラートの幅、フレーズの方向感。ひとつの音に対しても考えることが山ほどあります。
以前なら「この高音がきれいに当たればいい」と思っていた場所も、最近では「その前の音からどうつながっているのか」「その音はどこへ向かっているのか」と考えるようになりました。すると、楽譜に書かれている一つ一つの音符が、単なる記号ではなく、作曲家からの問いかけのように見えてきます。
もちろん、だからといって毎回吉田秀和のような分析をしながら音楽を聴かなければならない、ということではないでしょう。そんなことをしていたら、音楽を楽しむ前に疲れてしまいます。散歩中にふと聞こえてきたメロディに心を動かされる、昔聴いた曲を久しぶりに聴いて記憶がよみがえる。そういう聴き方も間違いなく音楽の魅力です。
ただ、本当に深く味わおうとすると、そこには果てしない世界が広がっている。そのことを知るだけでも、音楽の聴き方は少し変わります。
千手観音の話ではありませんが、人間の感覚には限界があります。耳が二つしかない以上、同時にすべてを聴き取ることなど不可能です。しかし、だからこそ何度も聴く意味があるのでしょう。
一回目は旋律を聴く。二回目は伴奏を聴く。三回目は音色を聴く。その次は演奏者の呼吸や間を聴く。同じ曲なのに、聴くたびに違うものが見えてくる。
名演奏と呼ばれるものが何十年経っても聴き継がれる理由は、単に「上手だから」ではないのだと思います。一度では聴き尽くせないほど、多くの情報や表情が詰め込まれているからです。
そう考えると、音楽というものは不思議です。たった数分の旋律の中に、演奏者の解釈、作曲家の意図、時代背景、そして聴く人自身の経験まで入り込んでくる。
耳がいくつあっても足りない。でも、足りないからこそ、人は何度も聴き続けるのかもしれません。
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