わりと良く聞く、というか読む話ですが、「戦後のクラシック音楽演奏は、画一的で個性がなくなった」。実はこれは(私の記憶が正しければ)第二次世界大戦前にすでに指揮者・フルトヴェングラーが著作のなかで指摘していたことでした。
なぜそんなことになってしまうのか。理由はかなりはっきりしています。まずレコードの発明。レコード以前は楽譜が唯一のメディアだったので、楽譜を元に自分で考えて音にしてみる(演奏してみる)。そこにその人の個性とか、地方性が現れます。2つとして同じ演奏はありません。でもレコードになると「お手本」が流通することになるわけですから、アメリカ人だろうがイタリア人だろうが日本人だろうが「お手本」に寄せた演奏をしてしまい、あるいは求めることになります。
戦後になると技術レベルが一気に底上げされました。昔のプロヴァイオリニストと言えども現代のコンクールに挑戦したらたぶん本選まで残れない人は多数いるはずです。でも技術レベルが向上した代わりにみんな同じような演奏に似てきてしまっているのは紛れもない事実でしょう。
さらに人材交流が盛んになり、グローバル化が進展するとどうしても先進国の人間の振る舞いは均一化してしまうのは避けられません。いまどき日本人だろうがドイツ人だろうがiPhoneとかエクセルとか電気自動車とかを使ったりするのは同じですからね。
ここで一つ考えなければならないのは、「個性がなくなった」という現象は、単純に演奏家の才能が失われたということではない、という点です。むしろ逆で、現代の演奏家は過去のどの時代よりも高い水準の技術を身につけています。音程、リズム、アンサンブル、表現力など、平均的なレベルは間違いなく向上しています。
問題は、その高い技術をどの方向に使うのか、ということです。
昔の演奏家は、多少の荒さや不安定さがあっても、「自分はこう感じる」というものを前面に出しました。テンポを大胆に揺らしたり、フレーズを大きく歌わせたり、時には作曲家の楽譜から少し離れることもありました。そこには、その人が生きてきた時代、文化、人生経験が反映されていたのです。
一方で現代の演奏家は、世界中の演奏を簡単に聴くことができます。幼少期から名演奏を浴びるように聴き、世界標準の技術を身につける。その結果、国境による違いは小さくなりました。かつて「ドイツ的」「フランス的」「ロシア的」と言われた音楽の特徴も、次第に薄れてきています。
これは音楽に限った話ではありません。グローバル化した社会では、どの国に行っても似たような製品があり、似たようなサービスがあり、似たような価値観が広がっています。便利で快適になった一方で、地域ごとの違いや個人の癖は失われやすくなりました。
では、もう音楽に個性は戻らないのでしょうか。
私はそうは思いません。むしろ、情報があふれる時代だからこそ、本当の意味での個性が求められているのではないでしょうか。
例えば、同じ楽譜を演奏しても、その人がどのような人生を歩み、何を感じ、何を伝えたいと思うかによって結果は変わります。技術的な正確さだけでは、聴衆の記憶に残る演奏にはなりません。
結局、個性とは「人と違うことをする」ことではなく、「その人にしか出せない必然性を持つこと」なのだと思います。
昔の巨匠たちは、録音技術も情報環境も十分ではない時代に、自分自身の耳と感覚だけを頼りに音楽を作りました。現代の演奏家は、膨大な情報を持つ代わりに、その中から何を選び、自分自身の表現として昇華するかが問われています。
音楽から個性が消えたように見えるのは、実は音楽家が個性を失ったからではなく、世界中の演奏があまりにも近くなったからなのかもしれません。その中でなお「この人の演奏だ」と感じさせる存在こそ、これからの時代に本当に価値を持つのだと思います。
問題は、その高い技術をどの方向に使うのか、ということです。
昔の演奏家は、多少の荒さや不安定さがあっても、「自分はこう感じる」というものを前面に出しました。テンポを大胆に揺らしたり、フレーズを大きく歌わせたり、時には作曲家の楽譜から少し離れることもありました。そこには、その人が生きてきた時代、文化、人生経験が反映されていたのです。
一方で現代の演奏家は、世界中の演奏を簡単に聴くことができます。幼少期から名演奏を浴びるように聴き、世界標準の技術を身につける。その結果、国境による違いは小さくなりました。かつて「ドイツ的」「フランス的」「ロシア的」と言われた音楽の特徴も、次第に薄れてきています。
これは音楽に限った話ではありません。グローバル化した社会では、どの国に行っても似たような製品があり、似たようなサービスがあり、似たような価値観が広がっています。便利で快適になった一方で、地域ごとの違いや個人の癖は失われやすくなりました。
では、もう音楽に個性は戻らないのでしょうか。
私はそうは思いません。むしろ、情報があふれる時代だからこそ、本当の意味での個性が求められているのではないでしょうか。
例えば、同じ楽譜を演奏しても、その人がどのような人生を歩み、何を感じ、何を伝えたいと思うかによって結果は変わります。技術的な正確さだけでは、聴衆の記憶に残る演奏にはなりません。
結局、個性とは「人と違うことをする」ことではなく、「その人にしか出せない必然性を持つこと」なのだと思います。
昔の巨匠たちは、録音技術も情報環境も十分ではない時代に、自分自身の耳と感覚だけを頼りに音楽を作りました。現代の演奏家は、膨大な情報を持つ代わりに、その中から何を選び、自分自身の表現として昇華するかが問われています。
音楽から個性が消えたように見えるのは、実は音楽家が個性を失ったからではなく、世界中の演奏があまりにも近くなったからなのかもしれません。その中でなお「この人の演奏だ」と感じさせる存在こそ、これからの時代に本当に価値を持つのだと思います。
・・・と、抽象的なことを書き連ねてきましたが、私はどうしてもミッシャ・エルマンみたいな強烈な個性をもったヴァイオリニストの演奏を聴いてみたいのでした。それが言いたかっただけなのでした。
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