2026年6月19日(金)、青葉台フィリアホールで開催された髙木凜々子さんのヴァイオリンリサイタル。安定した技巧をベースに、様々な作品を取り上げ多くの表情を見せてくれました。

1曲目はベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタというと5番か9番か、というくらいに人気が集中していて第2番の実演に接することはなかなかないので貴重な機会でした。躍動感あふれるリズムは、このあとどんな運命が自分を待ち構えているかを知らないベートーヴェンの若き日を思わせるかのよう。

2曲目のブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。これは率直に言って素晴らしいと思いました。銀色に静かに輝く水面に透明な軌跡ができてゆく様を見るかのような旋律の運び。一見何気ないように見えて、ボウイングやフィンガリングを相当工夫しないとこういう響きでああいうメロディにはなりません。なぜそう断言できるのか。それは私自身がブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」を弾いていて、何度弾いてもヨタヨタしたような流れにしかならず、1時間にわたって2小節を繰り返し練習するも何一つ改善されなかったという苦い経験をしているからなのです。

休憩を挟んでプロコフィエフの「ロミオとジュリエット組曲」。ブラームスとは明らかに違う音の世界が広がっています。暴力的な音、憧れに満ちた歌、鋭いフォルテ、不安にさせるピアニシモ、こうした色々な音が次から次へと並べられるのを聴いていると、プロコフィエフは紛れもなく20世紀の作曲家だということを思い知らされます。

ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。有名ながらも、有名であるには理由があります。この儚げな雰囲気。決して大きな感情を爆発させる音楽ではないのに、聴いていると遠い記憶の中にある何かを思い起こさせるような、不思議な魅力があります。

この曲で印象的だったのは、音を前面に押し出すのではなく、まるで薄いヴェールを一枚ずつ重ねるように音楽を作っていたことです。ヴァイオリンという楽器は、強い音を出そうと思えばいくらでも出せます。しかしラヴェルが求めているのは、そうした力強さとは別の、消え入りそうでありながら確かな存在感を持つ音なのだと思います。髙木さんの演奏は、その微妙なニュアンスを丁寧に描いていました。

続く「ツィガーヌ」では、一転して全く違う世界が広がります。冒頭から漂う即興的な雰囲気、妖しさを含んだ旋律、そして次々と現れる高度な技巧。まさにヴァイオリンという楽器の可能性を極限まで引き出したような作品です。

この曲は技巧的に難しいだけではなく、単に「上手に弾く」だけでは成立しない難しさがあります。速いパッセージや重音、激しいボウイングの中にも、どこか自由に歌っているような雰囲気が必要だからです。髙木さんは安定した技術を土台にしながら、技巧を技巧として見せるのではなく、音楽の表情として自然に聴かせていました。

アンコールではエルガーの「夜の歌」「朝の歌」、そしてドヴォルザークの「ユモレスク」。本編では大作曲家たちが描いた壮大な世界を聴かせてもらいましたが、最後は小品ならではの親密な魅力がありました。

エルガーの2曲では、イギリス音楽らしい落ち着いた叙情性が感じられました。「夜の歌」の静かな哀愁と、「朝の歌」の柔らかな光のような雰囲気。それぞれ短い作品ながら、そこに込められた感情の違いを丁寧に描き分けていたと思います。

そして最後の「ユモレスク」。誰もが一度は耳にしたことのある親しみやすい旋律ですが、単純な小品ではありません。素朴なメロディの奥にある温かさや少しの寂しさを表現することで、聴き慣れた曲が改めて新鮮に感じられました。

今回のリサイタルを通じて感じたのは、髙木凜々子さんの魅力は、確かな技巧だけではなく、作品ごとに異なる音の世界を作り出す力にあるということです。若きベートーヴェンの躍動感、ブラームスの内面的な歌、プロコフィエフの20世紀的な鋭さ、ラヴェルの繊細な色彩。それぞれ全く異なる音楽を、一つひとつ説得力を持って聴かせてくれた演奏会でした。