ヴァイオリンを弾く人なら、いつかは挑戦してみたいと思えるのがブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」。ロマンチックでありながらもどことなく懐かしさとか哀しさが入り混じったこの作品。作品成立の背景を調べると胸が締め付けられます。作曲のころブラームスが憧れていたクララ・シューマンの息子、フェリックスが結核で亡くなっています。第2楽章で葬送行進曲のリズムが用いられているのはどうやらこれが理由だったようなのです。
さてこの曲に挑戦しようと思えば、楽譜を買ってくること、これが最初のステップとなります。当然ですよね。そして1ページめ、2ページめと見ていくとそこまで難技巧が散りばめられているわけではありません。そもそもパガニーニみたいな技巧が重視されている作品ではないのでそれもそのはず。しかし実際に弾いてみると、やけに難しいのです・・・。
たしかに音を出すことはできます。でもそれが作品にふさわしい音かというと、全然そんなことはありません。Aの弦で弾いても構わないが、それだと「らしい」音にならないのでDの弦で弾くとか、アクセントやフレージングをどうするか、ヴィブラートはどうするか、といった音楽性が問われる場面だらけです。そしてそれらの難問を乗り越えても、ピアニストとの連携をどうするかという壁が待ち構えているのでした。ピアニストとの連携なんて、一人で練習していたら絶対に解決できません。でもヴァイオリンの練習は一人が基本。つまり解決できないのでした。辛い。
私は、この曲の難しさは「正解が書いていないこと」にあると思います。
たとえばサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」やヴィエニャフスキの協奏曲なら、難しさのかなりの部分は目に見えます。高速パッセージ、重音、ハーモニクス、左手ピチカート。楽譜を開けば「ここが難所だな」とすぐにわかります。そして練習を積み重ねれば、少なくとも弾けるか弾けないかは比較的明確です。
ところがブラームスは違います。
一見すると穏やかな旋律が続き、音符の数もそれほど多くありません。しかし、その一つひとつの音にどれだけ意味を持たせるかが問われます。音程が合っているだけでは足りません。リズムが正確なだけでも足りません。その音がどこへ向かい、どこで息を吸い、どこで言葉を置くのか。それを自分で考えなければならないのです。
しかもブラームスの音楽は感情をあからさまには語りません。
悲しいなら悲しいと叫ぶのではなく、静かに胸の奥へ沈み込んでいきます。だから演奏者も感情を過剰に表現するわけにはいきません。しかし抑えすぎると今度は音楽が平板になってしまう。この絶妙な均衡を探る作業は、技術練習とはまったく別の苦労があります。
さらに厄介なのは、この作品が「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」であることです。
ソリストと伴奏者という関係ではありません。ピアノは単なる伴奏ではなく、対等なパートナーです。むしろ楽譜を見ればわかるように、ピアノの役割は非常に大きい。ヴァイオリンが旋律を歌っている背後で、ピアノは絶えず音楽を動かし続けています。
そのため、自分一人でどれだけ練習しても限界があります。テンポの揺らし方一つとっても、相手がどう感じるかによって成立したり崩れたりするからです。録音を聴いて研究することはできますが、実際に人と合わせたときの呼吸までは再現できません。
結局のところ、この曲は「弾く」というより「育てる」作品なのかもしれません。
若い頃には見えなかった景色が、年齢を重ねると少しずつ見えてくる。人生で経験した喜びや喪失が、そのまま音楽の陰影になって現れる。だからこそ多くのヴァイオリニストが何度もこの曲に立ち返るのでしょう。
楽譜を買えば音符は手に入ります。しかしブラームスが本当に要求しているものは、音符の向こう側にある何かなのです。そして、その「何か」を探し続ける旅こそが、このソナタの最大の難しさであり、最大の魅力なのだと思います。
たとえばサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」やヴィエニャフスキの協奏曲なら、難しさのかなりの部分は目に見えます。高速パッセージ、重音、ハーモニクス、左手ピチカート。楽譜を開けば「ここが難所だな」とすぐにわかります。そして練習を積み重ねれば、少なくとも弾けるか弾けないかは比較的明確です。
ところがブラームスは違います。
一見すると穏やかな旋律が続き、音符の数もそれほど多くありません。しかし、その一つひとつの音にどれだけ意味を持たせるかが問われます。音程が合っているだけでは足りません。リズムが正確なだけでも足りません。その音がどこへ向かい、どこで息を吸い、どこで言葉を置くのか。それを自分で考えなければならないのです。
しかもブラームスの音楽は感情をあからさまには語りません。
悲しいなら悲しいと叫ぶのではなく、静かに胸の奥へ沈み込んでいきます。だから演奏者も感情を過剰に表現するわけにはいきません。しかし抑えすぎると今度は音楽が平板になってしまう。この絶妙な均衡を探る作業は、技術練習とはまったく別の苦労があります。
さらに厄介なのは、この作品が「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」であることです。
ソリストと伴奏者という関係ではありません。ピアノは単なる伴奏ではなく、対等なパートナーです。むしろ楽譜を見ればわかるように、ピアノの役割は非常に大きい。ヴァイオリンが旋律を歌っている背後で、ピアノは絶えず音楽を動かし続けています。
そのため、自分一人でどれだけ練習しても限界があります。テンポの揺らし方一つとっても、相手がどう感じるかによって成立したり崩れたりするからです。録音を聴いて研究することはできますが、実際に人と合わせたときの呼吸までは再現できません。
結局のところ、この曲は「弾く」というより「育てる」作品なのかもしれません。
若い頃には見えなかった景色が、年齢を重ねると少しずつ見えてくる。人生で経験した喜びや喪失が、そのまま音楽の陰影になって現れる。だからこそ多くのヴァイオリニストが何度もこの曲に立ち返るのでしょう。
楽譜を買えば音符は手に入ります。しかしブラームスが本当に要求しているものは、音符の向こう側にある何かなのです。そして、その「何か」を探し続ける旅こそが、このソナタの最大の難しさであり、最大の魅力なのだと思います。
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