転職活動をしていると、大抵は書類不合格で門前払いとなります。誰がやってもそうなります。そして書類選考になんとか合格すると、複数回の面接が待ち構えています。これもこれで面倒なものです。企業研究をしたうえで面接に臨まなくてはなりません。それは当然として、何が厄介かというと採用基準が公開されていないことにあります。
採用基準が公開されていないということは、応募者一人ひとりが「きっとこういう人を求めているだろう」と仮説を立ててチャレンジしなければなりません。でもその仮説が正しいかなんて分かりっこありません。不採用になっても「社風マッチが」「他候補者との比較が」なんていうよく分からない理由が伝えられます。場合によっては「組織のなかで仕事をしていくスピード感が足りない」なんていう腹立たしい説明が来ることもあります(私の場合)。おいおい、スピード感についての質問なんて一切なかったじゃないか!!
つまりは採用する側と応募者の側では情報量に圧倒的に差があり、非対称も甚だしいということなのです。そりゃ応募者側が不利に決まっとるわ。
しかも厄介なのは、その「正解」が企業ごとに違うだけではなく、面接官ごとに違うことです。同じ会社であっても、「主体性を見たい」という人もいれば、「協調性を見たい」という人もいる。「安定感がある」と評価されることもあれば、「変化への適応力が弱い」と真逆の評価を受けることもある。応募者からすれば、もはや面接というより霧の中を手探りで進むゲームに近くなります。
さらに、そのゲームには奇妙な特徴があります。落ちた理由が検証できないのです。
たとえば試験であれば、点数が返ってきます。営業なら売上という数字があります。スポーツならタイムや勝敗があります。しかし採用選考は違います。「なぜダメだったのか」が最後までブラックボックスのまま終わる。だから改善のしようがない。面接の受け答えが悪かったのか、経歴が弱かったのか、年齢なのか、単にもっと条件のいい人がいただけなのか。応募者には分かりません。
にもかかわらず、世の中ではしばしば「落ちるのは本人に問題があるからだ」という空気が漂っています。しかし実際には、採用というものはかなり偶然性を含んだ営みです。面接官との相性、その日の機嫌、会社の内部事情、急な採用方針変更、あるいは「今回は若手を優先したい」といった事情まで混ざり込む。応募者側からは見えない変数が多すぎるのです。
もちろん企業側にも事情はあります。限られた時間で大量の応募者をさばかなければならない。採用はコストもリスクも高い。だから効率化したくなるのは理解できます。問題は、その効率化の過程で、人間が「記号」として処理され始めることです。
履歴書、職務経歴書、年齢、転職回数、資格、退職理由。まずはそうした情報でふるいにかけられる。そして通過した人だけが、ようやく「人間」として扱われる。しかしその時点で、すでに多くの人が入口で落とされている。応募者から見れば、自分の人生やキャリアの積み重ねが、わずか数秒で判定されているようにも感じられるでしょう。
しかも不思議なことに、企業側はしばしば「主体性のある人材を求めています」と言います。だが実際には、応募者は企業側の意向を推測しながら、地雷を踏まないよう慎重に振る舞わなければならない。これは本当に主体性を見ているのだろうか。むしろ「空気を読む能力テスト」になってはいないか。
転職活動を続けていると、ときどき妙な感覚になります。社会は「多様性」や「個性」を称賛する一方で、採用の場面では驚くほど「無難さ」が好まれる。突出している人より、扱いやすそうな人。率直な人より、そつなく答える人。もちろん全部の会社がそうだとは言いません。しかし少なくとも応募者側には、そう見えてしまう瞬間が確かにあるのです。そして思うのです。「何を言ってもムダだ!」と。
さらに、そのゲームには奇妙な特徴があります。落ちた理由が検証できないのです。
たとえば試験であれば、点数が返ってきます。営業なら売上という数字があります。スポーツならタイムや勝敗があります。しかし採用選考は違います。「なぜダメだったのか」が最後までブラックボックスのまま終わる。だから改善のしようがない。面接の受け答えが悪かったのか、経歴が弱かったのか、年齢なのか、単にもっと条件のいい人がいただけなのか。応募者には分かりません。
にもかかわらず、世の中ではしばしば「落ちるのは本人に問題があるからだ」という空気が漂っています。しかし実際には、採用というものはかなり偶然性を含んだ営みです。面接官との相性、その日の機嫌、会社の内部事情、急な採用方針変更、あるいは「今回は若手を優先したい」といった事情まで混ざり込む。応募者側からは見えない変数が多すぎるのです。
もちろん企業側にも事情はあります。限られた時間で大量の応募者をさばかなければならない。採用はコストもリスクも高い。だから効率化したくなるのは理解できます。問題は、その効率化の過程で、人間が「記号」として処理され始めることです。
履歴書、職務経歴書、年齢、転職回数、資格、退職理由。まずはそうした情報でふるいにかけられる。そして通過した人だけが、ようやく「人間」として扱われる。しかしその時点で、すでに多くの人が入口で落とされている。応募者から見れば、自分の人生やキャリアの積み重ねが、わずか数秒で判定されているようにも感じられるでしょう。
しかも不思議なことに、企業側はしばしば「主体性のある人材を求めています」と言います。だが実際には、応募者は企業側の意向を推測しながら、地雷を踏まないよう慎重に振る舞わなければならない。これは本当に主体性を見ているのだろうか。むしろ「空気を読む能力テスト」になってはいないか。
転職活動を続けていると、ときどき妙な感覚になります。社会は「多様性」や「個性」を称賛する一方で、採用の場面では驚くほど「無難さ」が好まれる。突出している人より、扱いやすそうな人。率直な人より、そつなく答える人。もちろん全部の会社がそうだとは言いません。しかし少なくとも応募者側には、そう見えてしまう瞬間が確かにあるのです。そして思うのです。「何を言ってもムダだ!」と。
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