花見。私は友だちがいないのでそもそも花見をするということがありません。公園に出かけてシートをひいて飲食をする。何が楽しいのか私にはまったくわかりません・・・。もちろん公園とか川沿いに咲いている桜を見て綺麗だなあと感じることはあります。でも人と集まって(本当は桜を大して見るわけでもなく)ダラダラと時間を費やしてしまうことに嫌悪感を感じるのです。

花見といえば、酔っ払った奴が人に迷惑をかけるというのが相場です。しかもこれは今になって始まった話ではなく、少なくとも明治初期のころにもそういう奴がいるということがわかりました。

ある時私は、すみだ郷土文化資料館というところを訪れました。スカイツリーの近くにある資料館ですね。そのとき「墨堤の桜」という特別展が開催されていたのですが、隅田川沿いに咲き誇る桜を見て興奮したり酔っ払ったりした軍人とか酔客が馬に乗って堤のあたりを走ったり暴れたりして、警官の世話になるという内容の絵(浮世絵?)が展示されていたのでした。これを見て私は、なんだ、明治も令和も大して変わらんわいと思ったのでした。

花見という行為そのものは、季節の移ろいを感じる日本的な風習として長く愛されてきたはずです。しかし、その周辺にまとわりつく「迷惑」という要素もまた、どうやら同じくらい長い歴史を持っているようです。先に触れた明治初期の逸話は、その象徴的な一例だと言えるでしょう。

当時はまだ現代ほど厳格な公共マナーが整備されていたわけではないにせよ、わざわざ取り締まりの対象になるほどの騒動が起きていたという事実は見過ごせません。つまり、酒に酔い、気が大きくなり、場の空気に流されて羽目を外す人間というのは、時代や制度の問題というより、ある種の普遍的な存在なのだと思われます。桜が咲くと浮かれるというよりも、浮かれたい人間が桜という口実を見つけているだけなのかもしれません。

考えてみれば、桜は満開の期間が短いものです。だからこそ人は「今この瞬間を逃すまい」として外へ出ます。しかし、その「今しかない」という感覚が、理性のブレーキを緩める方向に働いてしまうこともあります。その結果として、騒音、ゴミの放置、場所取りのトラブル、さらには酔客による迷惑行為といった問題が繰り返されてきました。こうした構図は、江戸から明治、そして令和に至るまで大きく変わっていないように見えます。

むしろ現代のほうが、SNSなどによって「楽しんでいる様子」を外に発信する圧力が強まり、騒ぎ方がエスカレートしている側面すらあります。静かに桜を眺めるよりも、「盛り上がっている自分たち」を演出することが優先される場面も少なくありません。そう考えると、花見の本質はどこにあるのか、改めて考えさせられます。

もちろん、すべての花見がそうだと断じるつもりはありません。家族や親しい人と穏やかに過ごす時間としての花見も確かに存在します。ただ、歴史資料に残るほどの「迷惑な花見客」が昔からいたという事実は、花見という文化の裏側に常にそうした側面があったことを示しています。

結局のところ、「花見で迷惑な人がいる」という現象は、時代のモラル低下でも何でもなく、人間の性質がそのまま現れているにすぎないのでしょう。桜はただ静かに咲いているだけですが、それをどう扱うかは人間次第です。そして残念ながら、その「扱い方」は100年以上経っても劇的には変わっていないようです。そう思うと、あの資料館で見た光景は単なる昔話ではなく、現代の私たち自身を映す鏡のようにも感じられるのです。