読み進めることが容易くても、じつは読み深めることは難しい。そんな小説が世の中にあります。具体的にどんな作品だ、と問われると、「人によってその作品は違う」となります。作家と波長が合う合わないで読みやすさ・読みにくさは人それぞれですから。

私にとって読みやすく、一気に結末までたどり着いた作品は遠藤周作『深い河』でした。晩年の彼が文字どおり骨身を削るようにして書いたこの小説は、生涯の集大成といってもよい内容になっています。書き進めながら、自分の人生を振り返っていたに違いありません。そう思えてしかたない登場人物・場面に溢れていますもの・・・。

しかし一気に結末までたどり着くということは、ひとつひとつのセンテンスが重要なのに何も気づかず通り過ぎてしまうことの裏返しでもあります。改めて読み返してみると、こんな描写がありました。
(磯辺という男がガンジス河に向って、亡き妻のことを思って呼びかけると、)河は彼の叫びを受けとめたまま黙々と流れていく。だがその銀色の沈黙には、ある力があった。河は今日まであまたの人間の死を包みながら、それを次の世に運んだように、川原の岩に腰掛けた男の人生の声も運んでいった。
「銀色の沈黙」。河をこのように形容し、これが彼の人生を運ぶものだとみなしています。こんな言い方、唯一無二でしょう。なぜ見落としていたのか、と自分に驚きました。

この「銀色の沈黙」に気づいたとき、私は少しだけ読み方を間違えていたのではないか、という感覚を持ちました。物語の筋を追い、結末にたどり着くこと自体は確かに読書のひとつの喜びです。しかしそれは、いわば「移動」としての読書にすぎないのかもしれません。A地点からB地点へ、ストーリーという道をたどっていく行為です。

一方で、「読み深める」という行為は、その道の途中で何度も立ち止まることに似ています。なぜここでこの言葉が使われているのか。この沈黙はなぜ銀色なのか。川はなぜ「流れる」だけでなく「運ぶ」と表現されるのか。そうした問いをひとつひとつ拾い上げていく作業は、決して効率的ではありません。むしろ物語の流れをせき止めてしまう行為ですらあります。

だからこそ私たちは、ついそれを避けてしまうのでしょう。ページをめくる手を止めず、先へ先へと進んでしまう。その結果、物語の骨格は理解できても、そこに流れているはずの細やかな感情や思想の層には触れないまま終わってしまう。読みやすい作品であればあるほど、その危険は大きくなるのかもしれません。

遠藤周作の文章は、決して難解ではありません。むしろ平明で、静かに読み手の中へ入ってくる。その「読みやすさ」が、逆説的に読み手の注意力を鈍らせることもあるのではないでしょうか。気づかないうちに重要な一文を通り過ぎ、あとから振り返ってはじめて、その重みに気づく。今回の「銀色の沈黙」は、まさにその典型でした。

では、どうすれば読み深めることができるのでしょうか。おそらく特別な技術は必要ありません。ただ、「違和感」を見逃さないこと、それに尽きる気がします。少し引っかかる表現、妙に印象に残る言葉、理由はわからないが心に残る一節。そうしたものに出会ったとき、立ち止まる勇気を持てるかどうか。それが読みの深さを分けるのではないでしょうか。

考えてみれば、小説とはもともと急いで消費するためのものではなかったはずです。時間をかけて読み、時には戻り、反芻しながら味わうものだったはずです。それを私たちは、いつの間にか「どれだけ早く読み終えられるか」という別の基準で測るようになってしまったのかもしれません。

一度読み終えた作品を、あえてもう一度開いてみる。そのとき、以前は気づかなかった言葉がふと立ち上がってくることがあります。それは、作品が変わったのではなく、読み手である自分の側が少し変わったからなのでしょう。あるいは、ようやく作品の方に歩み寄る準備ができた、と言うべきかもしれません。

読み進めることは簡単です。しかし、読み深めることは難しい。けれどその難しさの中にこそ、小説を読むことの本当の豊かさが潜んでいるのだと思います。