リヒャルト・シュトラウスはずいぶんとお金にこだわる人だったようです。銭ゲバといっても良かったようです。あるとき、指揮の仕事を終えて帰宅すると、息子が「パパ、今日はいくら稼いだの?」と尋ねてきました。シュトラウスは、「お前もようやく俺の息子になったな!」と喜んだとか。
その後の彼はナチス政権下で公職に就いたものの世渡りに失敗して失職! そして数年にわたり仕事がない状態で失意の日々を送ることになります。しかしそれまでの人生で稼ぎに稼いでいたおかげで一応生活していくことはできたようです。やはりお金が大事ってことでしょうか。
こう書くとリヒャルト・シュトラウスはお金大好き人間に聞こえるでしょう。でもお金はお金好きの人のところに集まるといいますし、お金はないよりあったほうが絶対にいいですね。
しかしそういう人はえてして俗物なもの。確かに彼の残した交響詩は俗な内容のものも含まれています。「家庭交響曲」って、家族の様子をいちいちオーケストラを使って描写する必要があったのかと思われるほど。
その彼が晩年に残した「四つの最後の歌」と「オーボエ協奏曲」は、一体なんであの彼がこんな綺麗な曲を残したのだと思うほど澄みきった内容になっています。
例えるなら、「春」という言葉がふさわしいでしょう。春といってもただの春ではなく、人生最後の春。つまりもう来年の春を迎えることはなく、自分はこの世を去るのだという諦念に包まれた春です。
1945年、第二次世界大戦が終結した直後に書かれたこの作品は、瓦礫と混乱の中から静かに立ち上がるような音楽です。あれほどまでに華麗で、時に過剰ともいえるオーケストレーションを得意とした彼が、ここでは驚くほど透明で簡潔な語法を選んでいます。
この曲の誕生には一つの逸話があります。アメリカ兵でありオーボエ奏者でもあったジョン・デ・ランシーが、シュトラウスに「オーボエ協奏曲を書かないのですか」と尋ねたことがきっかけとされています。最初は興味を示さなかったシュトラウスですが、後になってその言葉が心に残り、結果としてこの作品が生まれました。まるで、若い音楽家の素朴な問いが、老巨匠の心の奥に眠っていた何かを呼び覚ましたかのようです。
音楽は終始、穏やかで抒情的です。第1楽章の流れるような旋律、第2楽章の内省的な歌、そして終楽章の軽やかな舞曲風の動き。それらは決して激しく自己主張することなく、むしろ「もう十分に語り尽くした」という静かな諦観に満ちています。かつての「英雄の生涯」や「ツァラトゥストラはかく語りき」のような自己誇示的な音楽とは対照的に、この協奏曲には引き算の美学が感じられます。
ここで思い出されるのが、同時期に書かれた「四つの最後の歌」です。あちらが声楽によって「別れ」を直接的に歌い上げるのに対し、オーボエ協奏曲は言葉を持たない楽器によって、より抽象的に、しかし確かに同じ境地を描いています。オーボエの音色は人の声に最も近いとも言われますが、その柔らかく、どこか儚い響きが、この作品の核心を形作っています。
若い頃のシュトラウスを「俗物」と断じることは簡単です。しかし、この晩年の作品群に触れるとき、私たちは単なる拝金主義者でも、世渡りに躓いた作曲家でもない、一人の人間としての彼を見ざるを得ません。栄光も挫折も知り尽くした末にたどり着いた境地。それは、派手さや成功とは無縁の、静かで澄み切った場所です。
オーボエ協奏曲は、まさにその場所から私たちに語りかけてきます。人生の終わりに近づいたとき、人は何を思い、何を手放し、何を残そうとするのか。シュトラウスはこの作品で、その問いに対するひとつの答えを、言葉ではなく音で示しているのかもしれません。
この曲の誕生には一つの逸話があります。アメリカ兵でありオーボエ奏者でもあったジョン・デ・ランシーが、シュトラウスに「オーボエ協奏曲を書かないのですか」と尋ねたことがきっかけとされています。最初は興味を示さなかったシュトラウスですが、後になってその言葉が心に残り、結果としてこの作品が生まれました。まるで、若い音楽家の素朴な問いが、老巨匠の心の奥に眠っていた何かを呼び覚ましたかのようです。
音楽は終始、穏やかで抒情的です。第1楽章の流れるような旋律、第2楽章の内省的な歌、そして終楽章の軽やかな舞曲風の動き。それらは決して激しく自己主張することなく、むしろ「もう十分に語り尽くした」という静かな諦観に満ちています。かつての「英雄の生涯」や「ツァラトゥストラはかく語りき」のような自己誇示的な音楽とは対照的に、この協奏曲には引き算の美学が感じられます。
ここで思い出されるのが、同時期に書かれた「四つの最後の歌」です。あちらが声楽によって「別れ」を直接的に歌い上げるのに対し、オーボエ協奏曲は言葉を持たない楽器によって、より抽象的に、しかし確かに同じ境地を描いています。オーボエの音色は人の声に最も近いとも言われますが、その柔らかく、どこか儚い響きが、この作品の核心を形作っています。
若い頃のシュトラウスを「俗物」と断じることは簡単です。しかし、この晩年の作品群に触れるとき、私たちは単なる拝金主義者でも、世渡りに躓いた作曲家でもない、一人の人間としての彼を見ざるを得ません。栄光も挫折も知り尽くした末にたどり着いた境地。それは、派手さや成功とは無縁の、静かで澄み切った場所です。
オーボエ協奏曲は、まさにその場所から私たちに語りかけてきます。人生の終わりに近づいたとき、人は何を思い、何を手放し、何を残そうとするのか。シュトラウスはこの作品で、その問いに対するひとつの答えを、言葉ではなく音で示しているのかもしれません。

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