交響曲、とくにベートーヴェンやブラームスが作ったものはいろんな仕掛けが盛り込まれていて、「普通に聴いていると絶対に気づかないよね」というものがたくさんあります。とあるメロディは、かなり前に登場したメロディの逆行形だったり裏返しだったり、細かい動機の積み重ねがじつは後々大きな意味を持っていたりとか。オーケストラの一員として実際に弾いていると気づくこともあるでしょうけれど、普通のリスナーがピンとくることはめったにないでしょう。
大抵は吉田秀和とかの著作を読んで、「そうだったのか!」と理解して、CDで確かめてみて「ああそうだな」となるのが通例。
私もベートーヴェンの『第九』はかれこれ何年も前から聴いていますが、いまだに発見があります。いやそもそも日常的に聴くような作品ではないので、鑑賞するといってもせいぜい年に数回ですが。
今回の発見は、『第九』の最終楽章のバリトン独唱の一節「おお友よ、このような響きではない!」です。なんとこれ、第1楽章の主題の裏返しなんだそうです。なぜそれが分かったのか? というと、指揮者大町陽一郎の『楽譜の余白にちょっと』という本の冒頭にそう書いてあったのです。言い換えると、何度聴いても自分では気づかなかったということですね。
ところで、この「気づかなさ」は、果たして欠点なのでしょうか。それともむしろ、交響曲という形式の豊かさを示すものなのでしょうか。私は最近、後者なのではないかと思うようになってきました。
というのも、こうした仕掛けは、たとえ意識的に理解していなくても、どこかで「効いている」ように感じられるからです。第1楽章の主題が、形を変えて終楽章に現れるとき、私たちはそれを「同じものだ」と論理的に認識していなくても、「どこかで聴いたことがあるような響きだ」と無意識に感じ取る。その感覚こそが、作品全体に統一感を与えているのではないでしょうか。
考えてみれば、言葉による説明を一切排した純粋な音楽において、こうした統一性を実現することは容易ではありません。オペラであれば台詞や筋書きがあり、物語の連続性が聴き手を導いてくれます。しかし交響曲にはそれがない。にもかかわらず、長大な時間の中でひとつの世界を築き上げるためには、作曲家は動機や主題を巧みに操作し、見えない糸で全体を結びつける必要があるのです。
そう考えると、「気づかない」ことは必ずしも問題ではなく、むしろ自然な聴取のあり方なのかもしれません。むしろ最初から仕掛けをすべて理解して聴くよりも、何も知らずに音の流れに身を任せ、その後で「あれはこういう構造だったのか」と知るほうが、作品との関係は豊かになる気さえします。発見の余地があるということは、それだけ長く付き合える作品だということでもあるからです。
実際、『第九』のような作品は、一度や二度で「分かった」と言い切れるようなものではありません。年に数回しか聴かないとしても、そのたびに新しい側面が立ち現れてくる。そのたびに、過去の自分の聴き方が少しずつ更新されていく。そうした時間の積み重ねそのものが、鑑賞体験の一部になっているように思います。
今回の「裏返しの主題」の発見も、おそらく次に聴くときには、以前とはまったく違った響きとして耳に届くはずです。そしてその変化は、単に知識が増えたというだけではなく、自分の中に新しい聴き方の回路がひとつ増えた、ということなのだと思います。
交響曲とは、聴くたびに少しずつ姿を変える不思議な存在です。あるときは壮大なドラマとして、あるときは精緻な構築物として、またあるときはただ美しい音の連なりとして現れる。そのどれもが正しく、そしてどれもが完全ではない。だからこそ私たちは、何度でも聴き返してしまうのでしょう。
というのも、こうした仕掛けは、たとえ意識的に理解していなくても、どこかで「効いている」ように感じられるからです。第1楽章の主題が、形を変えて終楽章に現れるとき、私たちはそれを「同じものだ」と論理的に認識していなくても、「どこかで聴いたことがあるような響きだ」と無意識に感じ取る。その感覚こそが、作品全体に統一感を与えているのではないでしょうか。
考えてみれば、言葉による説明を一切排した純粋な音楽において、こうした統一性を実現することは容易ではありません。オペラであれば台詞や筋書きがあり、物語の連続性が聴き手を導いてくれます。しかし交響曲にはそれがない。にもかかわらず、長大な時間の中でひとつの世界を築き上げるためには、作曲家は動機や主題を巧みに操作し、見えない糸で全体を結びつける必要があるのです。
そう考えると、「気づかない」ことは必ずしも問題ではなく、むしろ自然な聴取のあり方なのかもしれません。むしろ最初から仕掛けをすべて理解して聴くよりも、何も知らずに音の流れに身を任せ、その後で「あれはこういう構造だったのか」と知るほうが、作品との関係は豊かになる気さえします。発見の余地があるということは、それだけ長く付き合える作品だということでもあるからです。
実際、『第九』のような作品は、一度や二度で「分かった」と言い切れるようなものではありません。年に数回しか聴かないとしても、そのたびに新しい側面が立ち現れてくる。そのたびに、過去の自分の聴き方が少しずつ更新されていく。そうした時間の積み重ねそのものが、鑑賞体験の一部になっているように思います。
今回の「裏返しの主題」の発見も、おそらく次に聴くときには、以前とはまったく違った響きとして耳に届くはずです。そしてその変化は、単に知識が増えたというだけではなく、自分の中に新しい聴き方の回路がひとつ増えた、ということなのだと思います。
交響曲とは、聴くたびに少しずつ姿を変える不思議な存在です。あるときは壮大なドラマとして、あるときは精緻な構築物として、またあるときはただ美しい音の連なりとして現れる。そのどれもが正しく、そしてどれもが完全ではない。だからこそ私たちは、何度でも聴き返してしまうのでしょう。
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