私は人付き合いが苦手です。嫌いです。いつも一人です。だから「友だちいない研究所」なんていうブログを毎日書いているくらいです。性格診断テストでも社交性が低いという結果が出ました。自分でもそのとおりだと思いました。なので友だちがいません。
そんな折、私は縄文人はそのコミュニティから出られなかったらしい、ということを知りました。そりゃよく考えてみたら電車も新幹線もない時代ですから、その村(?)から出られないのは当然ですが、そもそも「出るな」ということが社会規範としてどうやら成り立っていたようなのです。辛い。
池田信夫さんの著作『平和の遺伝子』には、縄文土器の装飾は祭祀に使われたことを示すらしく、これを作るのにも時間がかかったと思われるが、それは共同体に対する贈与の役割を果たしたのだろう、ということに続けて、次のように書かれていました。
縄文式土器にどんな意味があったのかは想像するしかないが、入れ墨や抜歯は通過儀礼(成人式)で使われたものと考えられる。そういう身体的な「刻印」は苦痛をともなうが、他の部族では意味をもたない。自分の身体を傷つけることによって、縄文人は「この部族でしか自分は生きていけない」というコミットメントを示したのだろう。
「この部族でしか自分は生きていけない」というのは現代人である私からしてみればけっこうゾッとする話です。嫌な奴がいても一生そこにいろ、ということですから。
しかし、この話を単なる「昔は大変だった」で片づけてしまうのは、どこか浅い理解のようにも思えます。むしろ私が引っかかったのは、「なぜそこまでして共同体に縛りつける必要があったのか」という点です。
縄文時代の生活は、現代のように個人で完結するものではありませんでした。食料の確保、住居の維持、外敵への警戒、すべてが集団でなければ成立しない。つまり「一人でいる自由」は、そのまま「生きられないリスク」とほぼ同義だったはずです。そう考えると、身体に刻印を施してまで帰属を強めるという行為は、残酷というより合理的だったとも言えます。
ここでふと、自分のことを考えてしまいます。私は人付き合いが苦手で、できるだけ一人でいたいと思っています。そして現代社会では、それが一応は許されています。電車もあればインターネットもあり、仕事も生活も、ある程度までは単独で完結できる。縄文人から見れば、ほとんど奇跡のような環境でしょう。
にもかかわらず、私は「一人でいること」にどこか不安を感じ続けています。友だちがいないことを自覚し、それをテーマにブログまで書いているわけです。これはつまり、完全に孤立しても平気な人間ではない、ということの裏返しでもあります。
考えてみれば、人間の脳や感情は、数万年単位で大きく変わっているわけではありません。環境は劇的に変わったのに、「共同体に属していたい」という感覚だけが取り残されている。だから私は、一人でいたいと思いながらも、一人でいることに落ち着かないという、少しねじれた状態にあるのかもしれません。
縄文人は共同体から出られなかった。現代人は共同体から出られるようになった。ではそれで自由になったのかというと、どうもそう単純ではないようです。外に出る自由を手に入れた代わりに、「どこにも属していない」という状態を引き受けなければならなくなった。
そしてその状態は、必ずしも快適とは限らない。
私が感じている生きづらさの一部は、もしかするとここにあるのではないか。つまり、「一人で生きられる社会」と「一人では不安になる人間」のあいだのズレです。縄文人のように縛られるのは嫌だ。しかし、完全に切り離されるのもまた、どこか落ち着かない。
この中途半端な自由のなかで、私はどう生きるべきなのか。共同体に無理に適応するのでもなく、完全な孤立を理想化するのでもなく、そのあいだにある現実的な落としどころを探す必要があるのかもしれません。
少なくとも、「人付き合いが苦手だから一人でいい」と言い切ってしまうのは、少し乱暴すぎる気がしています。私が本当に求めているのは「誰とも関わらないこと」ではなく、「無理をしなくていい関係」なのではないか??
そう考えると、「友だちいない研究所」というこのブログも、単なる孤独の記録ではなく、むしろその落としどころを探るための試行錯誤なのかもしれません。
縄文時代の生活は、現代のように個人で完結するものではありませんでした。食料の確保、住居の維持、外敵への警戒、すべてが集団でなければ成立しない。つまり「一人でいる自由」は、そのまま「生きられないリスク」とほぼ同義だったはずです。そう考えると、身体に刻印を施してまで帰属を強めるという行為は、残酷というより合理的だったとも言えます。
ここでふと、自分のことを考えてしまいます。私は人付き合いが苦手で、できるだけ一人でいたいと思っています。そして現代社会では、それが一応は許されています。電車もあればインターネットもあり、仕事も生活も、ある程度までは単独で完結できる。縄文人から見れば、ほとんど奇跡のような環境でしょう。
にもかかわらず、私は「一人でいること」にどこか不安を感じ続けています。友だちがいないことを自覚し、それをテーマにブログまで書いているわけです。これはつまり、完全に孤立しても平気な人間ではない、ということの裏返しでもあります。
考えてみれば、人間の脳や感情は、数万年単位で大きく変わっているわけではありません。環境は劇的に変わったのに、「共同体に属していたい」という感覚だけが取り残されている。だから私は、一人でいたいと思いながらも、一人でいることに落ち着かないという、少しねじれた状態にあるのかもしれません。
縄文人は共同体から出られなかった。現代人は共同体から出られるようになった。ではそれで自由になったのかというと、どうもそう単純ではないようです。外に出る自由を手に入れた代わりに、「どこにも属していない」という状態を引き受けなければならなくなった。
そしてその状態は、必ずしも快適とは限らない。
私が感じている生きづらさの一部は、もしかするとここにあるのではないか。つまり、「一人で生きられる社会」と「一人では不安になる人間」のあいだのズレです。縄文人のように縛られるのは嫌だ。しかし、完全に切り離されるのもまた、どこか落ち着かない。
この中途半端な自由のなかで、私はどう生きるべきなのか。共同体に無理に適応するのでもなく、完全な孤立を理想化するのでもなく、そのあいだにある現実的な落としどころを探す必要があるのかもしれません。
少なくとも、「人付き合いが苦手だから一人でいい」と言い切ってしまうのは、少し乱暴すぎる気がしています。私が本当に求めているのは「誰とも関わらないこと」ではなく、「無理をしなくていい関係」なのではないか??
そう考えると、「友だちいない研究所」というこのブログも、単なる孤独の記録ではなく、むしろその落としどころを探るための試行錯誤なのかもしれません。
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