ヴィクトール・フランクルの著作『夜と霧』を読んでいると、けっこう恐ろしいことが書いてあります。人間はどんな環境にも慣れてしまうのだそうです。この『夜と霧』という著作ですが、なんとユダヤ人の強制収容所の日々を描いた記録であって、フランクル自身もまたユダヤ人でした。そのためナチスによって囚われの身となり、ナチスドイツ占領地域各地に設けられた強制収容所を転々とします。
のちに『夜と霧』を書き残すことができたということは、ついに生き残ることができたということ。この本が書かれた目的は、ナチスを批判するためではありませんでした。極限状況のもとで「人間とは何か」を徹底的に考え抜いた記録なのです。そのなかで、人間はどんな環境にも慣れてしまう・・・、たとえそれが強制収容所の生活であっても、ということが述べられているのでした。
さて話は変わります。私の暮らしは強制収容所からはほど遠い状態です。そらそうよ。じつは半年ほど前に東京の多摩方面から23区内に引っ越してきました。新しい家では、近所をわりと交通量多めの道路が走っており、当初は「この引っ越しは失敗だった! なんてこったい!!」と思っていたのでした。なにしろ多摩方面は東京といっても田舎で、わりと普通に畑があったりして下手すると岡山の実家よりも静かだったからなのです。
で、仕方ないので防音効果のあるアイテムをアマゾンとかで購入するのですが、とくに効果なし。ますます「この引っ越しは失敗だった!」と思うのでした。内見しないお前が悪い? いえいえ、23区は物件の需給が逼迫していて、内見できる物件=残り物・人気がないということの現れです。なので、半数以上の人は内見しないで決めている(これを先行契約というらしい)のです。
そして半年経過。
私はこの騒音に勝手に慣れてしまいました。なんで防音グッズなんか買ったんだろう・・・。そんなもん買ってくる金があるなら「ラブライブ! サンシャイン!!」のグッズ買ってりゃ良かったじゃん、とすら思えてしまうのです。道路を車が走っていても「あ~、外界でなんかやっとるな~」くらいのことをぼんやりと考えて終わり。適応能力とはすごいものです。
ただし、この「慣れる」という能力は、よく考えると少し怖いものでもあります。なぜなら、人間は良い環境にも慣れますが、悪い環境にも同じように慣れてしまうからです。最初は耐えがたいと思っていた騒音も、半年経てばただの背景音になります。ではもしそれが騒音ではなく、長時間労働だったらどうでしょうか。あるいは理不尽な職場環境、慢性的なストレス、あるいは不自由な生活だったらどうでしょうか。人間はそれにも慣れてしまう可能性があるのです。
これは決して大げさな話ではありません。歴史を振り返れば、過酷な状況に置かれた人々が、それを「普通の生活」として受け入れてしまう例は無数にあります。もちろん、それは弱さではなく、生き延びるための適応能力なのですが、その一方で「本来はおかしい状態」を見失ってしまう危険もはらんでいます。
私が今回感じた騒音への適応は、生活を楽にしてくれる良い適応でした。しかし同時に、「人間は環境に慣れる」という事実を改めて実感させる出来事でもありました。つまり、私たちは環境に合わせて変わる生き物なのです。
だからこそ、ときどき自分に問い直す必要があるのかもしれません。いま自分が「普通だ」と思っている生活は、本当に望んでいる生活なのだろうか、と。慣れてしまっただけで、じつはもっと違う暮らし方もあるのではないか、と。
人間の適応能力は、確かにすごい。しかし、その能力に任せきりにしてしまうと、自分の人生まで「なんとなく慣れた状態」で進んでしまうのかもしれません。
これは決して大げさな話ではありません。歴史を振り返れば、過酷な状況に置かれた人々が、それを「普通の生活」として受け入れてしまう例は無数にあります。もちろん、それは弱さではなく、生き延びるための適応能力なのですが、その一方で「本来はおかしい状態」を見失ってしまう危険もはらんでいます。
私が今回感じた騒音への適応は、生活を楽にしてくれる良い適応でした。しかし同時に、「人間は環境に慣れる」という事実を改めて実感させる出来事でもありました。つまり、私たちは環境に合わせて変わる生き物なのです。
だからこそ、ときどき自分に問い直す必要があるのかもしれません。いま自分が「普通だ」と思っている生活は、本当に望んでいる生活なのだろうか、と。慣れてしまっただけで、じつはもっと違う暮らし方もあるのではないか、と。
人間の適応能力は、確かにすごい。しかし、その能力に任せきりにしてしまうと、自分の人生まで「なんとなく慣れた状態」で進んでしまうのかもしれません。
コメント
コメント一覧 (1)
なんでもかんでもいちいち問い直すの面倒じゃね?