「何となれば、詮索好きな人間はみな悪意を抱いているからだ」。これは紀元前200年頃に活躍したローマの喜劇作家プラウトゥスの作品「ステックス」に見られる台詞です。
しかし、この場所は詮索好きの有象無象で一杯だ。この連中ときたら、他人の疝気(せんき)を自分の頭痛にしているようなお節介者ばかりで、自分ではこれという仕事を持っていない連中だ。この連中は、誰かが競売するとすぐにやってきて、その理由をあれこれほじくり出す。「借金取りに追い回されているんですか」とか、「不動産に投資するんですか」とか、「奥さんと別れて、持参金を返せと言われているんですか」とか聞き回るのだ。
なんとも迷惑な・・・。このような具合ですから詮索好きな人には悪意がある、ということになるわけですね。でも私たちの日常においても、知りたがり屋にはどこか悪意があるものです。つまり他人の不幸を喜びがちですし、自分が人の噂話にのめり込むときは、やはりそこに一抹の悪意がないとは言えないでしょう。

もっとも、ここで言う「悪意」は、必ずしも黒々とした敵意や害意ばかりを指すのではないでしょう。むしろそれは、退屈を紛らわせたいという欲求や、自分の立場を相対的に安全なものとして確認したいという、いささか卑小ではあるが人間的な衝動のことかもしれません。他人の破綻や失敗を聞いたとき、私たちは胸を痛めると同時に、「少なくとも自分はまだ大丈夫だ」とどこかで安堵する。その微かな安堵こそが、詮索をやめられない理由ではないでしょうか。

ローマ喜劇の世界で描かれる詮索好きの群衆は、二千年以上を経た現代においても、ほとんど姿を変えていません。井戸端会議はSNSに、広場の噂話はタイムラインに置き換わっただけです。誰かが転職すれば「何かあったのか」と囁かれ、家を売れば「資金繰りが苦しいのでは」と憶測が飛び交う。情報が瞬時に拡散する分だけ、詮索のスピードも密度も、古代よりむしろ増しているのかもしれません。

しかし考えてみれば、私たち自身もまた、完全に無垢な傍観者ではいられません。芸能ニュースを開き、炎上騒動を追い、知人の近況に過度な関心を寄せるとき、そこに純粋な善意だけがあると言い切れるでしょうか。「心配しているのだ」と自分に言い聞かせながら、実のところは刺激や優越感を求めている・・・、そんな瞬間が、誰しも一度や二度はあるはずです。

だからこそ重要なのは、詮索心を完全に否定することではなく、それを自覚することではないでしょうか。自分の内側にある小さな悪意に気づくこと。それに気づいたとき、私たちは一歩立ち止まり、「それは本当に知る必要のあることか」と問い直すことができます。詮索は簡単なことです。しかし沈黙や距離を保つことは、意外に難しい。

プラウトゥスの台詞は、詮索好きな他人を笑い飛ばすためのものに見えて、実は私たち自身への警句でもあります。他人の疝気を自分の頭痛にする前に、まずは自分の心の動きを診断してみる。噂に身を委ねるのではなく、節度ある無関心を選ぶ勇気を持つ。そのとき初めて、私たちは「悪意」から少しだけ自由になれるのかもしれません。