音楽というのは、音符を並べることで何かを表現すること。例えば精霊たちが踊る様子だとか、船が難破するとか、苦悩を克服して歓喜に至る心理だとか・・・。

しかし有名な作品だといつも通りなんとなく聴いてそれで終わり、ということになりがちです。私にとってはワーグナーの「タンホイザー序曲」がまさにそれでした。

桐朋学園大学において多くの弟子を育てた齋藤秀雄によると、「タンホイザー序曲」の巡礼の合唱と呼ばれるテーマについて、三拍子の曲ですがこれはマーチだという持論を持っていました。マーチなら右足、左足、右足、左足と行進するわけですから二拍子のはず。彼によると三拍子のマーチなのだそうです。

つまりローマからアルプスを越えて帰ってきた巡礼の行列が歌いながら近づいてくる様子を示しているのだとか。憔悴しきっていて、思いつかれた体をなんとかしてよいしょ、と引きずって、次の一歩を踏み出すためにはさらにもう一拍必要なので、アウフタクトはそれを意味しているというのです。しかも疲れ切って辛い体を動かすための一拍なので、アウフタクトは重いテヌートでなければならないのだそうです。

そして疲弊した人間の体は思うように動きません、だからインテンポではだめ。力を溜めながらなんとか歩いていく様子を音楽で表現しようとすると、当然テンポの変化を微妙につけるべき、という結論になります。

うーん、私はそんなこと一度も考えませんでした。何十年も聴いてきてなんとも浅はかな・・・。この話を知ってからというもの、私の中で「タンホイザー序曲」はまったく別の音楽になってしまいました。あの堂々としたコラールは、単に荘厳で崇高な旋律ではなく、疲れ切った巡礼たちの足取りそのものに思えてきたのです。三拍子の一拍目を踏みしめ、二拍目で身体を立て直し、三拍目で次の一歩への準備をする。アウフタクトは、よろめきながらも前へ進もうとする決意の溜め。そう考えると、同じ楽譜がまるで血の通った物語のように立ち上がってきます。単に私が人の話をコロッと信じてしまうますます浅はかな奴なだけかもしれませんが。

この考え方を知って、音楽は抽象芸術だと言われますが、決して無機質な音の並びではないのだと改めて感じました。作曲家はもちろん、演奏家もまた「なぜその音がそこにあるのか」を徹底的に考え抜いているんですね。テンポ、フレージング、アーティキュレーション、その一つ一つが意味を帯びるとき、初めて音楽はドラマになるのでしょう。

考えてみれば、私たちは有名曲であればあるほど「わかったつもり」になりがちです。旋律を知っている安心感が、思考を止めてしまう。しかし本当は、そこからが出発点なのかもしれません。何十年も聴いてきた作品に、いまさら新しい発見があるはずがない、そう思い込んでいたのは私の側でした。

もし巡礼たちの重い一歩が三拍子の中に刻まれているのだとしたら、音楽を聴くとは想像力を働かせることに他なりません。次にこの序曲を聴くとき、私はきっとテンポの揺れに耳を澄ませ、あの重いアウフタクトに宿る「よいしょ」という人間の息遣いを探すでしょう。そしてそれは、単にワーグナーを聴くという行為を超えて、音楽と向き合う姿勢そのものを問い直す体験になるのだと思います。