私はあまり自炊をしていませんでした。単純にレパートリーが少ないのと、作ったり洗ったりするのが面倒なので適当にコンビニとかスーパーで惣菜を買ったり、松屋とかすき家で済ませていました。

それがどういう心境の変化なのか、自炊を再開することにしました。

しかしやり方を思いっきり忘れています。アホである。とりあえず安い食材を入手するのだという意気込みのもと、業務スーパーに向かいます。ここは周りで一番安いのだということは経験的に分かっていました。
さあ何にするか。とりあえずカレーにしよう。そう思い立って冷凍野菜や肉、カレールーをカゴに入れます。

これは外形的にはただの買い物ですが、数年ぶりの自炊なだけに私の心の中は悲壮感モリモリでした。くっ、俺が自炊だなんて、何やっていいかわからん。失敗しながらスキルアップしていくしかない・・・。

学生だったころは自炊なんて割と当たり前にやっていました。つまりは家事能力が昔以下に逆戻りしてしまったということになります。もうアホとしか言いようがありません。使わない能力は低下していくのは当然のこと。だから当然の報いですね・・・。

そこでふと思いました。いちいちこんなに大げさに受け止めてしまうのは、私が内向型だからなのでしょうか、と。

外向的な人であれば、「よし、久しぶりに料理でもやるか!」と軽いノリで始めるのかもしれません。失敗しても「まあいいや」で済ませ、焦げた鍋すら笑い話にしてしまうでしょう。しかし私は違います。カレールーを棚から取った瞬間に、なぜか人生の退行まで連想してしまうのです。「昔はできたのに、今はできない」「能力が落ちた」「これは象徴的な出来事だ」などと、勝手に意味づけを始めてしまいます。ただの夕飯の準備が、自己評価の問題にまで発展していくのです。

こういう思考のクセは、これまでにも何度もありました。何かを再開するとき、新しいことを始めるとき、やる前から妙に構えてしまうのです。「これは自分の在り方に関わる重大な出来事だ」と、必要以上に重みを与えてしまう。内向型の人間は、行為そのものよりも、それに付随する意味を考えすぎる傾向があるのかもしれません。

しかし一方で、内向型の特性は本当にデメリットなのでしょうか。確かに始めるまでにエネルギーが要ります。いちいち悲壮感が漂います。ですが、その分だけ一つ一つの行為を丁寧に振り返ります。なぜ自炊をしようと思ったのか。なぜ今までしなかったのか。何が面倒で、何が怖いのか。そうやって内省を重ねること自体は、決して無意味ではないはずです。

実際にカレーを作ってみると、工程は驚くほど単純でした。肉を炒め、野菜を煮て、ルーを溶かす。それだけです。失敗しながら上達するとかいうものでは全くありませんでした。そして悲壮感を抱くほどの大事業ではありませんでした。にもかかわらず、私はそこに「衰え」や「再起」といった物語を見いだしていました。つまり問題は自炊そのものではなく、私の受け止め方にあったのです。

内向型であることの弱点は、何でも自分の内面の問題に強引にくっつけてしまう点かもしれません。しかし同時に、それは自分の変化を繊細に感じ取れるという強みでもあります。数年ぶりに包丁を握る自分にわずかな違和感を覚える。その違和感を言葉にできる。これはある種の感受性ではないでしょうか。

悲壮感モリモリで始まった自炊でしたが、完成したカレーは案外おいしくできました。失われたと思っていた能力は、完全には消えていなかったようです。使わなければ錆びますが、磨けば戻る。その当たり前の事実を、私は鍋の湯気の向こうに見た気がしました。

もし内向型ゆえに物事を重く受け止めがちなのだとしたら、それは半分はデメリットで、半分は資質なのだと思います。大げさに考えてしまうからこそ、些細な行為にも意味を見いだせる。自炊の再開という小さな出来事も、私にとっては生活を立て直す小さな宣言なのです。たぶん。

そう考えると、この悲壮感も悪くありません。鍋を洗いながら、私は少しだけ肩の力を抜きました。