児島虎次郎。といってもあまり有名ではありません。岡山県出身の画家で、幼くして才能を発揮し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を飛び級で進級してわずか2年で卒業しています。そのベルギーのゲントに留学した彼は、現地でも着物を来たベルギーの女性の絵など、様々な名品を描いています。

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しかし彼の業績で最も有名なのは、大原孫三郎の命を受けてのちに大原美術館に収蔵されることになるヨーロッパの絵画を買い付けたことでしょう。セガンティーニやモネ、ルノワールといった当時の「現代作品」もさることながら、やはりエル・グレコの受胎告知を日本に持ち帰ったことは特筆すべきことです。日本にはエル・グレコの作品は、東京の国立西洋美術館に1枚あるだけです。つまりものすごくレア・・・。

晩年の児島虎次郎は(晩年といっても40代で亡くなっているのですが)、倉敷市の酒津にアトリエを構え、これを無為村荘と名付けました。



私はこれをランニングしている途中に見つけ、「一体なんだろう・・・。まさか?」と思って調べてみたら予感は的中しました。

しかし残念ながら、ここは一般公開されていません。大原家が賓客を倉敷に招待したときの接遇として庭園でパーティーを開いたことがあるようですが(大原總一郎がこの庭園で昭和34年にウィーン少年合唱団とともに談笑している写真が残されている)、今は立ち入ることができなくなっています。まあ個人の住宅だったのでそれは当然といえば当然ですが、たとえば年に数日だけ一般公開されてもいいのではとも思えます。ただし周りに駐車場はないし、しかも車がないとアクセスが難しいので現実味は乏しいのかもしれませんが・・・。

もちろん、文化財の保存や管理には多大な労力と費用がかかりますし、現在も大原家の私的空間として大切に守られている以上、軽々しく「公開してクレメンス」と言うことはできません。しかし、あの静かな酒津の風景のなかに、ヨーロッパと日本を結びつけた画家の息遣いが今も残っているのだと想像すると、やはり一度はその場に立ってみたいという思いが湧き上がってきます。

児島虎次郎は単なる洋画家ではありませんでした。彼は実業家・文化人であった大原孫三郎の信頼を受け、自らの審美眼をもってヨーロッパの最先端美術を選び取り、日本にもたらした存在です。その結果生まれたのが、倉敷の地に突如として出現した西洋美術の殿堂、現在の大原美術館です。地方都市にモネやルノワール、そしてエル・グレコが並ぶという奇跡は、児島の確かな眼と行動力があってこそ実現しました。

とりわけ受胎告知を日本にもたらした功績は、いくら強調してもしすぎることはありません。あの強烈な光と影、引き伸ばされた人物像、霊的な緊張感は、あの美術館の中で一枚だけ明らかに違う空気をまとっています。日本でエル・グレコの実物を観ることができるという事実自体が、どれほど稀有なことか。もし児島がいなければ、私たちはこの作品を遠いヨーロッパの教会か美術館でしか知らなかったでしょう。

だからこそ、彼自身が晩年を過ごした無為村荘という空間にも、単なる「旧宅」以上の意味を感じてしまうのです。そこは、世界を見た画家が最終的に選び取った静寂の場所でした。倉敷川流域の穏やかな風、酒津の水辺の光、移ろう四季。そうした自然の中で、彼は何を思い、どんな構想を胸に抱いていたのでしょうか。

もし将来、保存と安全性が確保されたうえで、年に数日でも一般公開される日が来るならば、それは単なる観光資源の追加ではなく、倉敷の文化史を立体的に体感できる機会になるはずです。美術館で完成された作品を鑑賞することと、創作の場に立つこととは、まったく異なる体験です。アトリエの窓の位置、光の入り方、庭との距離感など、そうした具体的な空間が、作品理解に新たな奥行きを与えてくれるに違いありません。

いつの日か、あの門が静かに開かれ、「ここが児島虎次郎の思索の場所です」と案内される日が来ることを、ひそやかに願っています。倉敷という町が持つ文化の厚みは、まだ私たちの知らない層を秘めているのですから。