日本古典の王道中の王道、『源氏物語』。光源氏を中心に様々な女性たちがその生涯を彩る、華麗な物語。高校の古文の授業で必ず習うほか、大河ドラマのテーマになったり、繰り返し小説や映画で用いられたりと、日本人なら必ず通る道。

しかし、実際に読んでみたよ、という人となるとガクッと少なくなるのも事実。何しろ読みづらい。現代語訳でも読みづらい。そもそも私たちが想像する、「普通の小説の文体」とはかけ離れていますし、話の進み方もまた同じこと。そしてところどころに挟まれた和歌。これもまた意味がよくわからず、読み進めようという意欲が削がれてしまいます。

だからなのか、どこの図書館でも『源氏物語』の第1巻はよく読まれてすこし古びていますが、2巻以降はわりと新品同様だったりします。そらそうなるわな。

私自身も『源氏物語』を瀬戸内寂聴訳で4巻(朝顔の帖のあたり)まで読み進めましたが、けっこうしんどいのです。そして、的外れかもしれませんがあるときふと思い立ちました。

あれ、これってオペラに見立てて読み進めるっていうのもありなんじゃね? 普通の文章がレチタティーヴォで、和歌がアリア。けっこういい線行ってると思います。

しかもそう考えてみると、不思議なくらい「ああそうかな」と思える瞬間が増えてきます。物語の筋そのものは、実は驚くほど単純です。誰が誰を恋い、誰が去り、誰が残されるのか。その反復です。ところが、その「出来事」そのものよりも、心の揺れや余情にこそ筆が割かれているわけです。ここが現代小説との決定的な違いでしょう。

たとえば、登場人物がふと詠む一首の和歌。あれをストーリーを止める障害物と見るか、感情が凝縮された見せ場と見るかで、読書体験はまったく変わります。オペラで言えば、筋を前に進めるレチタティーヴォのあとに、感情を爆発させるアリアが置かれる。観客はそこで時間の流れをいったん忘れ、人物の内面に没入する。和歌も同じ役割を果たしているのではないか、と。

そう思って読むと、光源氏は名テノールであり、紫の上は透明感あるソプラノ、六条御息所は重厚なメゾソプラノのように感じられてきます(ちょっと無理がある?)。場面転換は幕間、季節の描写は管弦楽による間奏曲。そう捉えれば、冗長に思えた描写も「音楽的な溜め」に見えてくるのです。

考えてみれば、『源氏物語』が生まれた平安時代は、和歌こそが最高の教養であり、コミュニケーションの核心でした。物語の中で歌が重要なのは当然です。むしろ、歌を中心にドラマが組み立てられていると言ってもいい。私たちが「読みづらい」と感じるのは、小説として読もうとするからであって、本来は“総合芸術”として味わうべきものなのかもしれません。

そう考えた瞬間、少しだけ気が楽になりました。全部を理解しようとしなくてもいい。意味が取りきれない和歌があってもいい。それは外国語のオペラを聴くときと同じで、旋律や響きに身を委ねればよいのです。

完読を目指すというよりも、一幕一幕を鑑賞するつもりで。そうやって私は、もう一度あの長大な物語に向き合ってみようと思っています。