「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」という絵画があります。作者はアドルフ・メンツェル。ドイツにおける19世紀の代表的な画家の一人で、線画、エッチング、および絵画で作品を残しています。あまり有名な画家ではありませんが、「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」だけは世界史の資料集などに掲載されていたりするので見たことがある、という人もかなり多いのではないでしょうか。

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実物はベルリンのドイツ旧国立美術館に展示されています。
当時の上流階級または知識階級と呼ばれる人たちの様子をうかがい知ることができる貴重な作品です。
フリードリヒ大王の演奏するフルートの音色に聞き入って・・・、というか「俺の演奏を聴け!」という大王に忖度する取り巻きたちという様子かと思いきや、違いました。

よくよく見ていると、シャンデリアの方ばかり見ている奴がいます。こいつは何でしょうか。多分音楽に飽きたんでしょう。大王は彼らに対して椅子も用意していません。立って聴けってことでしょうか。手下が椅子を用意するから俺は知らんということでしょうか。

おしゃべりばかりしている奴らもいます。最初から聴くつもりがないんでしょう。

画面右のほうにいて大王をじっと見ているのは、フルートの先生でしょうか。表情から察するに弟子の演奏に満足していないようですね。

そうやって作品を見ていると、忖度する人たちばかりに囲まれていたわけではなく、よそ見をしたりぼーっとしていた人たちが大王の側近たちだったということがなんとなく想像されます。

この絵が面白いのは、いわゆる「啓蒙専制君主フリードリヒ大王」の公式イメージを、ことさらに強調していない点でしょう。啓蒙思想に理解があり、音楽と哲学を愛し、自らフルートを吹く教養人君主・・・、そうした説明文だけを読んでからこの絵を見ると、どうも肩透かしを食らいます。画面にあるのは、厳粛な音楽会でも、熱狂的な鑑賞の場でもなく、どこか気の抜けた、日常の延長線上にある宮廷の一場面だからです。

メンツェルは、英雄を英雄として描くよりも、「その場に本当にいたら、こう見えただろう」という視点を優先した画家だったのでしょう。構図も決して大仰ではなく、フリードリヒ大王は画面の中心にいるものの、圧倒的な存在感で周囲を支配しているわけではありません。むしろ、部屋全体の空気感、光の回り方、人物同士の微妙な距離感のほうが印象に残ります。

興味深いのは、音楽文化的な営みが、必ずしも全員にとって特別な時間ではない、という現実が淡々と描かれている点です。音楽に没入している者、「一応(言われたから)来てます」という風情でそこに立っている者、退屈を紛らわす者、批評的に聴いている者。それぞれが同じ空間にいながら、まったく違う態度を取っている。この雑多さは、ある意味非常に人間的です。

そしてそれは、権力者の周囲が必ずしも「完全な忠誠」で固められていないことを示唆します。全員が全員、心の底から感動し、敬意を払い、目を輝かせているわけではない。多少の無関心や倦怠、内心の評価は、どんな時代、どんな組織にも存在する。メンツェルはそれを批判的に誇張するでもなく、皮肉を込めて描くでもなく、ただ「そういうものだ」と言わんばかりに置いています。

だからこそ、この絵は単なる歴史画にとどまりません。18世紀プロイセンの宮廷を描きながら、同時に現代の職場や会議室、発表会の光景とも重なって見えてくるのです。上司のプレゼンを半分聞き流す人、形式的に拍手する人、真剣に内容を評価する人。時代が違っても、人間の振る舞いは驚くほど変わらない。

「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」は、偉大な王の趣味を讃える絵ではありません。権力と教養、音楽と退屈、敬意と無関心が同じ部屋に同居する、その微妙なバランスを静かに示した一枚です。だからこそ、教科書の片隅に載せられ、何度見ても「何か引っかかる」絵として、今なお記憶に残り続けているのではないでしょうか。ちょっと大げさかもしれませんが。


参考文献