瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を読み進めて今のところ第2巻の「賢木」(さかき)というところまでたどり着きました。しかしストーリーがいまいち頭に入ってきません。途中でお茶を淹れようと思ってしばらく離れて、戻って続きを読み進めてみると、あれ、さっきここ読んだかも? うん、読んだ読んだ! うっかり数ページ後戻りしたところから再開してしまったんだ! と気づく始末。普通なら絶対にそんな間違いはしませんが、ついそういうことが起こってしまうのが『源氏物語』。なにしろ一般的に言われている小説の文体とは異なるので、話が追いかけづらいのです。

そんなこんなで、挫折しがちなのが『源氏物語』。自分なりに挫折の理由を整理してみました。

まず第一に、「物語の推進力」が現代小説とはまったく異なることです。事件が起き、それが解決し、次の展開へ・・・という分かりやすい因果関係が弱い。とくに「賢木」あたりでは、物理的な出来事よりも、人物の心の揺れや、過去の余韻、関係性の気配といったものが文章の大半を占めます。読者としては「何が起きたのか」を掴もうとするのですが、紫式部はむしろ「どう感じられ続けているか」を書いている。ここにズレが生じます。

第二に、視点が非常に流動的であること。語り手は一応いますが、誰の内面をなぞっているのかが曖昧なまま、すっと別の人物の心情に移っていく。しかもそれが説明されない。結果として、少し集中を切らすと「今、誰の話だったっけ?」となり、数ページ戻る羽目になる。お茶を淹れに立っただけで迷子になるのも、ある意味当然です。

第三に、時間感覚の違い。『源氏物語』では、季節が巡り、年月が流れているはずなのに、その経過があっさり省略されたり、逆に一瞬の感情が延々と描かれたりします。現代人が慣れている「時系列の分かりやすさ」は、ほとんど期待できません。読んでいるこちらの時間感覚が、じわじわと攪乱されていきます。

そして第四に、登場人物の名前問題。源氏自身ですら呼び名が変わり、女性たちは固有名詞を持たず、役職や住まい、関係性で呼ばれる(『源氏物語』に限った話ではなく当時の女性はえてしてそんな感じだったらしい)。これは知識の問題というより、読み進めるときの負荷の問題で、物語への没入を妨げる地味だが大きな要因です。

こうして整理してみると、『源氏物語』が読みにくいのは、読者の理解力が足りないからでも、集中力が欠けているからでもないようです。否、そもそも「一気に筋を追う」読み方を、最初から拒否する構造を持った作品なのだと思えてきます。

もしかすると、『源氏物語』は小説というより、長大な和歌付きの人生観察記録であり、心理の連なりを味わうための文章の連なりなのかもしれません。そう考えると、途中で迷子になることも、同じところを二度読むことも、失敗ではなく、この物語の正しい読み方の一部なのではないか? そんな気が、最近はしています。