岡山県立美術館で開催中の展覧会「美と祈り—近現代日本美術にみるキリスト教」。キリスト教は戦国時代に日本に伝わり、禁教の時代を経て明治になり正式に解禁され、今に至っています。その歩みを美術の観点からたどった興味深い展覧会となっています。
戦国時代にも高山右近や、その劇的な最期と辞世の句で知られる細川ガラシャなど、キリスト教に帰依した人物が少なからずいました。そうした人たちの人物画や踏絵といった重要文化財の展示は、このような観点の企画がなければまとめてみることが難しいだけに貴重な機会となっています。
銅板や真鍮製の踏絵。見た瞬間、遠藤周作の『沈黙』を思い起こす方も多いのではないでしょうか。この踏絵を踏まなくては自分が拷問にかけられてしまう。しかし多くの人の望みを託したこのイエスの顔を踏むことなどできない・・・。そういう葛藤と苦悩を語りかけてくるかのような思いにとらわれました。
また、青木繁の旧約聖書物語挿絵に見る丁寧な絵解きや、和田三造の、イエスの生涯をたどったイエス・キリスト聖画集。これらは個人蔵の作品もあるため、おそらく最初で最後の鑑賞となるでしょう。
面白いことに、岡山ゆかりのキリスト教美術も紹介されています。といってもイエスとかヨハネの肖像ではなくて、コンパスを描いた作品だったり、コンポジションと題した抽象画だったりと、一見してキリスト教がバックボーンにあるとは分からない作品です。
しかし、そうした「一見わからなさ」こそが、近現代日本におけるキリスト教受容の実相なのだろうとも感じました。禁教という長い断絶を経たこの宗教は、日本では共同体の規範や生活習慣として根付くよりも、むしろ個人の内面に静かに沈殿していった。その結果、信仰は直接的な図像ではなく、秩序、測定、構造、あるいは不可視の原理といったかたちで、美術作品の深層に反映されるようになったのではないでしょうか。
踏絵が示すような「踏む/踏まない」という極限の二択、あるいは殉教や棄教といった劇的な物語は、確かに強い印象を残します。しかし展示を見進めるにつれ、より心に残ったのは、声高に語られない信仰の痕跡でした。抽象画に潜む厳格な構成、理知的な線の選択、過剰な感情表現を避けた静けさ。そこには祈りが言葉や身振りとしてではなく、思考や態度として存在しているように感じられます。
日本美術において、宗教はしばしば「外来のもの」として語られがちです。しかし本展は、キリスト教が異物として排除され続けた歴史だけでなく、時代や個人の内面を通過し、姿を変えながら表現へと昇華されていった過程を丁寧に示しています。美術館という静かな空間で、祈りがどのように形を変え、いかにして人の心のなかで生き延びてきたのかを考える時間は、現代に生きる私たち自身の信念や価値観を問い直すきっかけにもなるでしょう。信じるとは何か、沈黙とは何か。その問いは、展示室を出た後も、しばらく胸の内に残り続けました。
踏絵が示すような「踏む/踏まない」という極限の二択、あるいは殉教や棄教といった劇的な物語は、確かに強い印象を残します。しかし展示を見進めるにつれ、より心に残ったのは、声高に語られない信仰の痕跡でした。抽象画に潜む厳格な構成、理知的な線の選択、過剰な感情表現を避けた静けさ。そこには祈りが言葉や身振りとしてではなく、思考や態度として存在しているように感じられます。
日本美術において、宗教はしばしば「外来のもの」として語られがちです。しかし本展は、キリスト教が異物として排除され続けた歴史だけでなく、時代や個人の内面を通過し、姿を変えながら表現へと昇華されていった過程を丁寧に示しています。美術館という静かな空間で、祈りがどのように形を変え、いかにして人の心のなかで生き延びてきたのかを考える時間は、現代に生きる私たち自身の信念や価値観を問い直すきっかけにもなるでしょう。信じるとは何か、沈黙とは何か。その問いは、展示室を出た後も、しばらく胸の内に残り続けました。
コメント