岡山県倉敷市。ここには大原美術館という美術館があります。実業家・大原孫三郎が画家・児島虎次郎に絵画の買い付けを依頼し、モネやゴーギャン、ルノワール、さらにはエル・グレコといった名品がコレクションに収められています。開館当初は西洋絵画を鑑賞するという行為が広まっていなかったため、来館者0名という日もあったと伝えられていますが、満州事変を調査したリットン調査団がここに立ち寄り、東洋にも立派な美術館があることに驚いたとも伝えられています。
それが理由なのか、太平洋戦争末期において大原美術館があるから倉敷は空襲の対象にならなかったという説がありますが、実際はしっかりと空襲の対象としてリストアップされていました。
アメリカ軍が空襲の目標を検討するための180都市のリストでは、倉敷市は159番目に位置していました。そして、8月上旬には目標情報票やリト・モザイク(注:航空写真地図)が作られ、倉敷空襲はかなり具体的に検討されていました。空襲が行われるほぼ一歩手前の状況で、もしも終戦があと数日遅ければ倉敷市の中心部も空襲を受けていたと思われます。当の大原美術館でも、1945年6月30日と7月3日に所蔵する美術品を疎開させています。(木村崇史『岡山空襲 -記録と写真からまなぶ-』より)
やっぱりそうだったのか。しかし美術品の疎開、ちょっとマイペースすぎないでしょうか。もし疎開させるならあと2~3か月は早くやっておいたほうが安全な気がしますが・・・。
それはともかく、俗説というのはほんとにあくまでも俗説であって、実際に調べてみるとそうじゃなかった、というのはよくある話ですね。
このエピソードが示しているのは、「もっともらしい理由」はあとからいくらでも作れてしまう、ということだと思います。大原美術館があったから倉敷は守られた、という物語は耳触りがよく、文化の力を信じたい気持ちにも合致します。しかし、実際の空襲計画を辿っていくと、戦争はそんな情緒的な配慮で動いてはいませんでした。都市は工業力、交通網、軍事的重要性といった冷徹な指標で順位づけされ、倉敷もその巨大な計算表の一行として、確かにそこに載っていたのです。
終戦が数日早まったか遅れたか、その偶然によって街の運命が分かれたという事実は、むしろ戦争の無作為性と残酷さを浮き彫りにします。守られたのではなく、たまたま破壊されなかった。それだけの差です。美術館が残ったことに意味がないわけではありませんが、それを「守られた理由」として語るのは、歴史を過度に美談化してしまう危うさを孕んでいます。そもそも、ウィーンやドレスデン、ミュンヘンといった歴史ある都市も破壊されているわけですから、倉敷もまた空襲の被害を受けていても不思議ではありませんね。事実、中心部は空襲を免れましたが、倉敷南部にある水島の三菱重工業の航空機製作所が壊滅状態に追いやられています。
美術品の疎開が比較的遅かったことも、人々がどこかで「ここまでは来ないだろう」と信じていた証左かもしれません。危機が差し迫って初めて動き出す、その人間らしい判断の遅れもまた、資料を通して浮かび上がってきます。戦争の只中にあっても、人は常に最悪を想定できるわけではないのです。
こうして俗説を一つひとつ検証していくと、歴史はロマンから少しずつ剥がれ落ち、代わりに具体的で、曖昧で、そして現実的な姿を見せ始めます。それは決して夢のない作業ではありません。むしろ、事実に基づいて語り直すことで、その土地や文化が「偶然生き残ったもの」として、より深い重みを持って立ち上がってくるように思います。倉敷の街を歩き、大原美術館の静かな展示室に立つとき、その背後にあったかもしれない別の歴史を想像することも、私たちに許された大切な向き合い方なのではないでしょうか。
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