お金を使ってない瞬間はロックフェラーでもあるしサラリーマンでもある。なんじゃそりゃと思うかもしれませんが、ある意味真実だと思います。

お金というのは、使った時にのみその効力が発揮されます。車を買う、レストランで食事する、芝居を見る。そんなときにお金を使います。芝居が終わればその効力は失われます(思い出になって残りますが)。一方、使うことなく銀行口座に残っていれば、それが100万だろうが1000万だろうが効力が発揮されないので、無いのと同じことです。

世界一の大富豪として知られるジョン・ロックフェラー。彼は容赦なく商売敵を叩き潰す冷徹な人柄でした。その彼がものすごくうれしそうな表情を浮かべている映像を見たことがあります。一体彼は何をした時にそんな表情を浮かべたのか? 冷たい性格なら笑うなんて似つかわしくありませんね。なんと孫娘と遊んでいる時でした。なんだそりゃ、孫が可愛いって、ちびまる子ちゃんの友蔵じいさんと変わらんやんけ! もちろん庭で孫と遊んでいる時に彼は1ドルも使っていません。ということは、その瞬間彼は大富豪であるとともに、普通の日本人であった友蔵じいさんと同じ立場でもあるということです。

この事実は、私たちがお金をどう捉えているかを静かに問い直します。

多くの場合、人は「いくら持っているか」で自分や他人の価値を測りがちです。年収、貯金額、資産額。それらはたしかに数字としては分かりやすい。だから同級生同士が集まると無意味なマウント合戦になることも。しかし、その数字が意味を持つのは「使われた瞬間」だけです。使われないお金は、可能性として存在しているにすぎず、現実の幸福や満足を直接生み出してはいません(2026年現在のように、インフレだとお金の価値がちょっとずつ目減りしていくので、むしろ静かに損失が膨れていくことになります)。

逆に言えば、幸福そのものは必ずしもお金と比例しない、という当たり前でも忘れがちな事実が浮かび上がります。ロックフェラーが孫と遊んで笑った瞬間に必要だったのは、巨万の富ではなく、時間と関係性でした。芝生の感触、子どもの笑い声、共有されたひととき。それらはお金で買えない、あるいは少なくともお金の量とは無関係な価値です。

べつに私は「だから、お金は無意味だ」という短絡的なことを言いたいのではありません。お金は依然として強力な道具です。医療を受けることも、住まいを確保することも、移動することも、多くはお金によって支えられています。ただし、お金は道具であって目的ではない。使われて初めて、何か別の価値へと変換されます。

問題は、変換されないままのお金に過剰な意味を与えてしまうことです。数字が増えること自体が目的化すると、人は使うことを恐れ、減ることに怯え、結果として何も生み出さない資産を抱え込むことになります。その状態では、ロックフェラーであろうとサラリーマンであろうと、本質的には同じです。どちらも「使われていないお金」を眺めているだけなのです。

だからこそ問われるのは、「いくら持っているか」ではなく、「何に変換しているか」でしょう。時間、安心、経験、関係性、学び。お金はそれらに姿を変えたときにだけ、人生に痕跡を残します。ロックフェラーが笑った理由は、大富豪だったからではありません。富と無関係な価値に触れていたからです。私たちもまた、その瞬間だけは、誰であろうと同じ地平に立っているのかもしれません。

*ジョン・ロックフェラーについてはNHKの「映像の世紀」シリーズを参考にしました。