三匹の子豚というお話があります。筋書きはご存じのとおり。藁の家を作った子豚と木の家を作った子豚はオオカミに襲われて食べられてしまいます。しかし手間暇かけて煉瓦の家を建設した子豚は、家が頑丈だったので結局助かった、というお話です。
ここから、しっかりと努力した者だけが身の安全を確保できるという教訓を引き出すことが可能です。しかし、これって結果論じゃないでしょうか? オオカミが襲ってきた、という世界線以外にも、オオカミが襲ってこない世界線だってあったはずです。もしオオカミが襲ってこないのであれば、藁の家にも木の家にもそれぞれメリットはあったはずです。
例えば、藁の家は作るのが簡単で低コスト。取り壊すのも簡単。ということは、その土地が気に入らなければすぐに別の場所に移動して再出発を図ることも簡単だということ。木の家も、藁の家ほど安価でなくても十分に日常の暮らしには用いることができるだけの耐久性だってあるはずですし(日本の家だって木造ですから)、ありふれた素材なので補修もそこまで難しくありません。いわば藁の家と煉瓦の家の中間的存在と言えるでしょう。別の言い方をすると「煉瓦の家がいい」というのは単なる成功バイアスじゃないか、ということです。
この視点に立つと、「三匹の子豚」は努力礼賛の寓話というより、このあとどうなるか分からない世界において、どういう選択をしたらいいのか、という物語として読み替えることができます。重要なのは、どの家が「正解」だったかではなく、どういったリスクを想定し、どのようなコストを引き受けるかという判断の違いです。
ここで見落とされがちなのは、世界がどの程度「オオカミ的」かは、事前には分からないという点です。オオカミが必ず来る世界なら煉瓦一択でしょう。しかし、オオカミが来ない確率が高い世界、あるいは来ても別の形(火ではなく交渉、力ではなく制度)で現れる世界や、そもそもオオカミがそのあたりに一切生息していないといった場合では、煉瓦の家は「やりすぎ」になりかねません。結果として生き残った子豚の視点から語られる物語は、どうしても「努力した者が正しかった」という単線的な教訓にまとめられがちですが、それは後付けの物語化、すなわち成功バイアスです。
現実の人生も同じです。全財産を一つの専門性に注ぎ込み、堅牢な「煉瓦の家」を築く人もいれば、軽装で移動し続ける「藁の家」型の生き方を選ぶ人もいる。どちらが正しいかは、襲ってくるオオカミの種類と頻度、そして自分が再出発に耐えられる体力や年齢によって変わります。
三匹の子豚が本当に教えてくれるのは、「努力すれば報われる」ではなく、自分が生きている状況の不確実性をどう見積もり、どのリスクを引き受けるかを自覚的に選べという、むしろ冷徹で現実的な教訓なのではないでしょうか。
現実の人生も同じです。全財産を一つの専門性に注ぎ込み、堅牢な「煉瓦の家」を築く人もいれば、軽装で移動し続ける「藁の家」型の生き方を選ぶ人もいる。どちらが正しいかは、襲ってくるオオカミの種類と頻度、そして自分が再出発に耐えられる体力や年齢によって変わります。
三匹の子豚が本当に教えてくれるのは、「努力すれば報われる」ではなく、自分が生きている状況の不確実性をどう見積もり、どのリスクを引き受けるかを自覚的に選べという、むしろ冷徹で現実的な教訓なのではないでしょうか。
・・・そう考えると、一番バランスが取れているのは「木の家」なんじゃないかっていう気がしてきました。割としっかりと作ればオオカミが体当たりしてきてもちょっとやそっとじゃ崩壊しないと思います。それと煉瓦はやっぱり地震に弱いです。・・・ああそうか、地震がない地域の物語だから地震リスクは考慮しないってか。
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