長島愛生園。と言ってもこの名前は広く知られてはいません。正式には国立療養所長島愛生園と言い、岡山県瀬戸内市邑久町虫明に位置する国立ハンセン病療養所です。ただし、現実には「ハンセン病」を患ってここで生活している人は今現在はいません。ハンセン病は戦後間もなく、適切に治療すれば治る病気となりました。このため、この療養所にいる人は、厳密にはハンセン病の後遺症を抱えている人ということになります。



なぜ私がこの場所を訪れたか。じつは私自身はこのハンセン病と差別という問題について何年も前から向き合ってきました。知れば知るほど、ハンセン病患者に対する差別が戦後数十年にわたって継続したのは、誤った政策が放置されたこと、正確な科学的知識が広まらなかったこと、不適切な報道がなされ続けたこと、こうしたことから偏見が根強く残ってしまったからだということを理解しました。そして、特に戦前において「無らい県運動」と呼ばれる運動が官民を挙げて行われ、つまりは一般の国民が(つまり私たちのような人物が)、何の問題意識もなく差別に加担していたことに慄然となります。

何の問題意識もなかった、ということはそれで何が悪いのかわからないまま差別をしていたということであり、つまりそのことに対して反省をすることもなかったということなのです。新型コロナウイルス感染症の感染拡大初期においてもやはり感染者に対する差別が広まりましたが、私は「なんだこいつら、過去の教訓から何一つ学んでないじゃないか」という嫌悪感を深くし、人間嫌いを加速させてゆくことになったのでした。

さて長島愛生園には歴史館があり、こちらで様々な資料を閲覧することができます。また、団体で訪問すると学芸員による資料解説および島内の桟橋や納骨堂といった見学ツアーがあります。なぜこんなところに納骨堂? と思うかもしれませんが、一人患者がいるとその家族もまた周囲の人々から差別を受けるため、死後もなおこの地に留まらざるを得なかったという経緯があるのでした。

見学ツアーで歩く島内は、瀬戸内海の穏やかな景色とは裏腹に、重い歴史を静かに抱え込んでいました。桟橋は、かつて患者たちが本土から「隔離」されて渡ってきた場所です。そこは旅立ちの港ではなく、事実上の社会的な断絶の入口でした。二度と家族に会えないかもしれない、元の名前で呼ばれないかもしれない、そうした不安と絶望を抱えたまま、多くの人がここに足を踏み入れたのです。

歴史館の展示は、感情に訴えかける演出を極力排し、淡々と事実を積み重ねています。しかし、その冷静さこそが、かえって残酷に感じられました。かつての新聞記事や写真、入所者の証言。どれもが「知らなかった」「仕方がなかった」という言い訳を許さない重みを持っています。特別に悪意を持った誰かが差別を主導したのではなく、ごく普通の人々が、社会の空気に流される形で加担していたという現実が、そこにはありました。

私はこの場所で、「差別は異常な人間が行うものではない」という事実を改めて突きつけられました。むしろ、秩序や善意、正しさを疑わない態度こそが、差別を長期化させ、制度として固定化してしまうのだと思います。無関心であること、考えないこと、それ自体が加害になりうるのです。

長島愛生園は、過去の悲劇を展示するための場所ではありません。ここは、私たちが「今、どの立場にいるのか」「何を見ないふりして生きているのか」を問われる場所です。ハンセン病の隔離政策は終わりました。しかし、同じ構造の差別は、形を変えて今も存在しています。だからこそ、この島を訪れることには意味があるのだと思います。歴史を知ることは、過去を悼む行為であると同時に、現在の自分を疑う行為なのです。

かつては瀬戸内海によって本土と長島は隔てられていましたが、1988年に橋が架けられ、徒歩でも通行が可能となっています。この橋、邑久長島大橋は「人間回復の橋」とも呼ばれ、長年の関係者の苦労と努力の末に架橋されたものです。この橋を渡って帰り道についたとき、私は多くの人の思いを想像し、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを抑えることができませんでした。