ハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第4番 ト長調』。といってもあまり知られている作品ではありません。ヴァイオリン協奏曲というとバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーンといった作曲家ばかりがいつもクローズアップされがちです。その陰に隠れるかのように佇んでいる(?)のがハイドンです。

そもそもハイドンって、近年のコンサートのプログラムに採用されることがあまりないですね。地味だったり、尺が微妙だったりと、ほぼ重なり合う時代を生きたモーツァルトやベートーヴェンと比べるとどうしても見劣りしてしまいます。同じことが彼の作曲したヴァイオリン協奏曲にも当てはまるのかもしれません。現に、「モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を演奏会で聴いたよ」という人はたくさんいるはずですが、ハイドンのそれを聴いたよという人は少数派のはず。

とはいえ作品の質が劣るというわけではありません。これがなかなかの佳品なのです。



楽譜を見てみると、そこまで難しい技巧が使われているわけではないので、アマチュアでも十分太刀打ち可能な圏内にあります。
しかし技術的に可能であるということと、「それっぽく聴こえる」のはノットイコールであるのはヴァイオリンを弾く人ならみんなご存じのはず。この動画のように気品ある響きを作り出すのがとても難しいのです。そしてその「気品」が欠けてしまったとき、もうハイドンはハイドンではなくなっているといっても過言ではないでしょう。

他にも上手い人の動画はたくさんありますが、私はあえてこれを引用しています。それは、「バリバリ弾いてて上手いけど、なんか貴族社会の時代の音楽らしくないよね」と感じられてしまうからなのでした。

では、この協奏曲のどこに「見かけ以上の難しさ」が潜んでいるのでしょうか。

まず第一に挙げられるのが、音楽の密度の低さです。ロマン派以降の協奏曲のように、旋律が感情の奔流となって押し寄せてくるわけではありません。和声も比較的明快で、フレーズも簡潔。そのぶん、演奏者のちょっとした音程の甘さ、ボウイングの粗さ、アーティキュレーションの雑さが、そのまま露呈してしまいます。音で「誤魔化す」余地がほとんどないのです。

さらに厄介なのが、表現過多が即座に様式違反になってしまう点でしょう。ヴィブラートをかけすぎれば途端にロマン派の香りが漂い、フレーズを歌わせすぎれば、ハイドン特有の節度と均衡が崩れてしまう。かといって抑制しすぎれば、今度は無味乾燥で教科書的な演奏になってしまいます。この絶妙な「やりすぎないが、何もしていないわけでもない」という地点を探り当てるのは、相当な経験と感性を要求されます。

また、オーケストラ(現実にはピアニストに伴奏してもらうことになるのだが)との関係性も重要です。独奏ヴァイオリンが英雄的に前面へ出るのではなく、あくまで対話の一員として振る舞う必要がある。その姿勢自体が、近代以降の協奏曲に慣れた演奏者にとっては、意外と難しいのではないでしょうか。

結果として、この曲は「技巧的には易しそうに見えるが、様式美を理解し、音楽的成熟を備えた人でなければ成立しない」タイプの作品だと言えます。ハイドンのヴァイオリン協奏曲ト長調は、若い奏者の腕試しというよりも、むしろ演奏人生のどこかで改めて向き合うべき一曲なのかもしれません。気品とは、テクニックの先に自然と滲み出るものなのだ・・・、この作品は、そう静かに語りかけてくるように思えるのです。