昭和20年夏、日本の敗戦ののち、連合軍がやってきて占領下におかれました。・・・というのは誰もが知っている歴史的事実です。しかし連合軍とは何でしょうか。漠然と米軍のことだと思っていました。厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥の姿のインパクトの強烈さからついそう思ってしまいがちです。

しかし実際に日本に来たのはあくまでも連合軍。つまり連合国を形成したアメリカ以外の国の軍隊も日本を占領するためにやってきたということでした。

岡山にやってきたのは、なんとイギリス連邦軍。つまりイングランドとかスコットランドだけじゃなくて、オーストラリアやニュージーランド、当時の英領インド、こうした地域の軍人たちがやってきたということです。ちなみに英領インドというと現在でいうインド以外にもネパールやパキスタン、バングラデシュ、ミャンマーを含んでいました。それだけ多種多様な人々が岡山に駐屯していたということです。

実際にはアメリカ軍も駐屯しており、彼らは軍政つまり現地の行政指導を担当していました。イギリス連邦軍の役割は、日本側の軍備解体と治安維持だったようです。たとえば第7インド軽騎兵隊(軽騎兵隊といっても馬ではなく戦車や装甲車両が主力)という部隊は倉敷を拠点とし、笠岡、高梁、新見、真庭から鳥取など広範囲を巡回していました。第30イギリス野戦砲中隊は兵庫との県境周辺を警備していました。もちろん武器、爆発物、毒ガスなどの廃棄も進めていました。

そしてインドやパキスタンといえばやはりイスラム教を忘れてはなりません。ムスリムはもちろん異国の地にあっても礼拝を欠かすことはありませんでした。昭和21年8月20日には岡山陸軍飛行場を接収した占領軍飛行場において、ラマダン明けに行われるイードという礼拝が行われていたようです。

その光景を想像すると、戦後間もない岡山の空の下で、白い服をまとったムスリム兵士たちがメッカの方角に向かって一斉に祈りを捧げる姿は、当時の日本人にとって相当な衝撃だったに違いありません。敗戦によって「外から来る異質なもの」を一気に受け入れざるを得なくなった日本社会は、言葉も宗教も生活習慣も異なる人々と、否応なく日常を共有することになりました。一方で、先に述べたような武装兵による巡回は、敗戦国としての現実を強く意識させるものでもありました。銃を携えた異国の兵士が町を歩く風景は、日常と非日常が重なり合う奇妙な時間を生み出していたのです。

興味深いのは、こうした多国籍な占領軍の存在が、岡山の人々の「世界認識」を静かに拡張した点でしょう。英語だけでなく、ヒンディー語やウルドゥー語、宗教儀礼や食習慣といった多様性に、否応なく触れることになったからです。戦争は確かに破壊と喪失をもたらしました。しかしその後に訪れた占領期は、たとえわずかな期間であったにせよ、地方都市である岡山にとって、初めて「世界と直接つながる」体験の連続でもありました。

連合軍占領とは、単にアメリカの影響下に置かれた時代ではありません。岡山に駐屯したイギリス連邦軍の存在は、日本の戦後が最初から多文化的で、国際的な接触の上に始まっていたことを静かに物語っています。戦後史を考えるとき、私たちはこの「足元にあった国際性」に、もう少し目を向けてもよいのではないでしょうか。


参考文献