京都から電車で20分余りのところにある宇治。ここは平等院があることでも知られており、世界遺産の街としても有名です。そして『源氏物語』の最終編「宇治十帖」の舞台でもあります。
平等院の朱塗りは、冬の薄曇りの空の下では華やかさよりも静謐さを帯びます。鳳凰堂を前に立っても、写真を撮るより先に、立ち尽くしてしまう。極楽浄土を現世に写し取ったはずの建築が、なぜか「救い」よりも「諦観」を語りかけてくるのです。この感覚は、『源氏物語』の最終章「宇治十帖」を思い浮かべると、妙に腑に落ちました。
宇治十帖には、光源氏のような圧倒的な存在はもういません。私も最近知ったのですが、宇治十帖に至るまでの数年間は『源氏物語』に明確に記述されているわけではありません。つまり「光源氏はここで死んだんです。いちいち書かないけど、数年間の空白があるから察してくれ」ということが言いたいわけです。いちいち言ったらだめですが。
宇治十帖には、光源氏のような圧倒的な存在はもういません。私も最近知ったのですが、宇治十帖に至るまでの数年間は『源氏物語』に明確に記述されているわけではありません。つまり「光源氏はここで死んだんです。いちいち書かないけど、数年間の空白があるから察してくれ」ということが言いたいわけです。いちいち言ったらだめですが。
そして宇治十帖における登場人物たちは皆、どこか影を引きずり、決定的な幸福に手が届かないまま、迷い、すれ違い、選択を誤ります。若さも身分も感情も、すべてが不安定で、読者は救いのある結末を期待しながら、最後まで裏切られ続けるのです。やる後悔よりもやらぬ後悔なんて何て言葉がありますが、どっちにしても後悔してしまう。やってもうまくいかないし、やらなくてもそのまま不幸になってしまう。この出口のない感じ。冬の宇治の空気は、その「救われなさ」を、驚くほど生々しく感じさせました。
宇治川沿いを歩いていると、冷たい風が頬を打ちます。人影はまばらで、足音だけがやけに大きく響く。一人でいるからこそ、余計な情報が削ぎ落とされ、自分の内側にある感情が浮かび上がってくるのでしょう。薫や匂宮が抱えた、言葉にできない不安やためらいは、決して平安時代特有のものではなく、現代を生きる私たちの心にも確かに残っています。
宇治十帖の切なさは、「悲劇が起きる」ことではなく、「何も決定的には起きない」ことにあります。誰かを強く想いながらも、最後の一歩を踏み出せない。その結果として訪れる、静かな後悔と空白。冬の宇治を一人で歩いていると、その余白の時間を、実際に体でなぞっているような気持ちになります。
帰りの電車に乗る頃、宇治は相変わらず静かでした。けれど、その静けさは、単なる観光地のオフシーズンではなく、物語が積み重ねてきた感情の層そのもののようにも思えます。宇治十帖の切なさが身に染みるのは、物語を読んだからではなく、冬の宇治という場所が、それを否応なくこちらの人生に引き寄せてしまうからなのかもしれません。一人旅だからこそ、その切なさは、より深く、逃げ場なく胸に残りました。
宇治川沿いを歩いていると、冷たい風が頬を打ちます。人影はまばらで、足音だけがやけに大きく響く。一人でいるからこそ、余計な情報が削ぎ落とされ、自分の内側にある感情が浮かび上がってくるのでしょう。薫や匂宮が抱えた、言葉にできない不安やためらいは、決して平安時代特有のものではなく、現代を生きる私たちの心にも確かに残っています。
宇治十帖の切なさは、「悲劇が起きる」ことではなく、「何も決定的には起きない」ことにあります。誰かを強く想いながらも、最後の一歩を踏み出せない。その結果として訪れる、静かな後悔と空白。冬の宇治を一人で歩いていると、その余白の時間を、実際に体でなぞっているような気持ちになります。
帰りの電車に乗る頃、宇治は相変わらず静かでした。けれど、その静けさは、単なる観光地のオフシーズンではなく、物語が積み重ねてきた感情の層そのもののようにも思えます。宇治十帖の切なさが身に染みるのは、物語を読んだからではなく、冬の宇治という場所が、それを否応なくこちらの人生に引き寄せてしまうからなのかもしれません。一人旅だからこそ、その切なさは、より深く、逃げ場なく胸に残りました。
・・・それと京阪電鉄宇治駅の近くには飲食店がいまいちなくて、ちょっとお腹を空かせて京都駅に戻らなければなりませんでした。調べが甘かった。いちおうガストを見かけて入ろうかと一瞬思ったものの、さすがにここまで来てファミレスかと思うと、見送らざるを得ませんでした。
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