2025年12月時点で日中関係が急速に悪化しています。この影響でしょう、日経新聞に「京都のホテルが安い、云々」という記事が掲載されていました。

そうかな、と思って私も調べてみたら、たとえばビジネスホテルで3,900円といった破格の値段になっていました。というわけで考えてみました。自分も京都行こうかなと。そしてやめました・・・。

「京都に行ける状況にありながら、結局行かない」という行動は、一見するとやる気がなかったり、優柔不断のように見えるかもしれません。しかし、私の場合それはエネルギーがないわけでも、決断力が乏しいわけでもなく、自分なりにかなり説明がつく性格傾向の結果です。

私が京都行きを思いとどまるとき(別に京都じゃなくて名古屋でも博多でもいいのですが)、必ず浮かぶ疑問があります。「行くことはできるけど、行って何をしたいの?」「そこで何が自分の中に残るの?」という面倒な問いかけです。この問いに答えが出ない限り、私は動きません。言い換えると、他の人が見て「行くべき場所」「感動するはずの場所」とされているからといっても、私にとっては大抵の場合、行動理由にならないのです。第三者が認める評価を、そのまま自分の意見として引き受け不可能なのです・・・。

京都は、良くも悪くも「すごい」だらけです。「ここはすごい」「歴史がある」「日本文化の真髄だ」といった評価や文脈が、私たちが生まれてくる前からものすごく大量に付与されてしまっています。本来であれば、自分が行ってみて初めて評価可能になるところが、先に「○○寺は由緒正しき場所であって・・・」とかいうあるべき姿がイメージされてしまいます。となると、私は「正しく感じられているか」「『答え』に自分の感性がシンクロしているか?」を確認する羽目になってしまいます。これはきつい。

また、私は「行くこと自体が目的になる行為」に強い違和感を覚えます。京都に行った、名所を巡った、写真を撮った、という事実が「今回の旅行でやったこと」として回収される未来が想像できてしまうと、それは私にとって形式上の努力に変わります。あくまでも形式上であって実質的な意味はゼロ。これもきつい。それって、別にやらなくてもよかったよねという感覚が拭えません。意味のない行為を本能的に避けているのだと思います。

とはいえ重要なのは、私が京都を嫌っているわけではありません。拒否しているのは京都そのものではなく、「京都を消費しちゃってるイケてるワイ」になることです。本来なら場所を味わい、時間に沈み、思考が変質するような深い体験こそが旅行で味わうべき理想の姿でしょう。しかし一般的な観光の枠組みは、情報や予定、期待に溺れがちで、その余白を奪います。

こうした性格の結果として、私は「行かない」という選択をします。ある意味、自分のエネルギーを守り、意味のない消耗を避けるための判断とも言えるでしょう。ただし、この特性を放置すると、どこにも行かず、何もせず、ダメ人間ワイという閉塞感も抱きがちです。

というわけでホテルが安いからと言って即京都に行かない理由は、行動力の問題ではなく、人生を軽く消費したくないという、私なりの慎重さの表れなのだと思います。