ヴァイオリンを弾くのは写経みたいなもんである。・・・一体何が言いたいのか?
ヴァイオリンを弾くのは辛い。なにしろ音程がグラグラして音痴に聞こえる。これはアマチュアの宿命です。宿命であるからには回避不可能。毎回そうなると思って間違いなし。
音程がうまくはまっても、音楽としてそれっぽく聞こえるためにはフレージングを整えなければなりません。ということはフィンガリングやボウイングが「弾いていて楽」ではなく「自然に聞こえる流れ」にしなければなりません。
これらの条件をクリアして初めて最低限のラインを超えられたというところでしょう。
毎日そんなことをやっていると、大して上達を実感できないまま日数だけが経過します。そしてある日気づきます。ヴァイオリンを弾くのはある意味写経みたいなもんであると。
写経というのは、一文字ずつ丁寧に書き写すだけの単純作業でありながら、不思議と心が落ち着いてくる行為です。ぱっと見ると単なる反復にしか見えないのに、続けていると頭の中の雑音が減り、最後には妙な達成感すらある。ヴァイオリンも、まったく同じ構造を持っています。
練習を始める前は、「今日は調子が悪いな」「仕事で嫌なことがあった」「あの案件どうしよう」など、脳内のおしゃべりが止まりません。しかし、いざ弓を置き、G線のロングトーンを一本引くと、世界がスッと狭まるのです。音程が外れるかどうかという極めて些細なことに意識を全集中せざるを得ないため、余計なことを考える余裕がなくなる。これはもう、精神統一の儀式に近いものがあります。
もちろん、結果として出てくる音は必ずしも美しくありません。むしろ半分以上は「もうちょっと何とかならないのか」と自分にツッコミを入れたくなる代物です。でも、その「何とかならない音」を少しでも整えようと、指を置く位置を直し、弓の角度を変え、呼吸を合わせてみる。こうした微調整を延々と繰り返していると、不思議と心拍が落ち着いてくるのです。これは、筋トレでもランニングでも得られない、ヴァイオリン特有の静かな修行感です。
写経もまた、完成した紙を誰かに見せるわけではありません。そもそも上手い下手を競うものでもない。自分が自分と向き合うためだけに存在する行為です。ヴァイオリンも同様で、アマチュアが練習したところで、ほとんどの場合、他人から褒められる場面はありません。音程が改善したところで、社会的な地位が上がるわけでもない。練習した本人しか気づかない、微細な変化の積み重ねにすぎません。
では、なぜ続けてしまうのか。理由は簡単で、静かに心が整うからです。
フレーズがようやく自然な流れに聞こえた瞬間、あるいは、昨日より半音分だけ音程の迷いが減ったと感じた瞬間、胸の奥がふっと軽くなります。誰に見せるでもない、ごく小さな変化。それを自分だけが知っている。その自己完結した満足感が、精神のバランスをほどよく調節してくれるのです。
結局、ヴァイオリンは写経のようなものだと気づいたとき、ようやく楽しめるようになります。「今日は上達した」とか「下手になった」とか、そんな直線的な評価軸ではなく、ただ音を整える時間そのものを味わうという境地に至るのです。進歩が遅くてもいい。毎回つまずいてもいい。ただ、その日の自分の心を静かに整えるために弾く。そう割り切った瞬間、ヴァイオリンは苦行から、精神安定装置へと変わります。
そして気づくのです。写経に「完成」という概念がないように、ヴァイオリンにも終わりはない、と。いつまでたっても音程は揺れ、表現は迷い、弓は暴れます。それでも続けるのは、その迷いや揺れこそが日々の雑念を洗い流す役割を果たしてくれるからです。
ヴァイオリンを弾くことは、上達のための活動ではなく、むしろ日々の心の掃除なのかもしれません。そう思えるようになると、今日の練習もほんの少しだけ優しい気持ちで終えられます。これってある意味上達に対する諦めともなりますが、反面、アマチュアにとっては慰めにもなるんじゃないか、と思いますが、いかがでしょうか。
練習を始める前は、「今日は調子が悪いな」「仕事で嫌なことがあった」「あの案件どうしよう」など、脳内のおしゃべりが止まりません。しかし、いざ弓を置き、G線のロングトーンを一本引くと、世界がスッと狭まるのです。音程が外れるかどうかという極めて些細なことに意識を全集中せざるを得ないため、余計なことを考える余裕がなくなる。これはもう、精神統一の儀式に近いものがあります。
もちろん、結果として出てくる音は必ずしも美しくありません。むしろ半分以上は「もうちょっと何とかならないのか」と自分にツッコミを入れたくなる代物です。でも、その「何とかならない音」を少しでも整えようと、指を置く位置を直し、弓の角度を変え、呼吸を合わせてみる。こうした微調整を延々と繰り返していると、不思議と心拍が落ち着いてくるのです。これは、筋トレでもランニングでも得られない、ヴァイオリン特有の静かな修行感です。
写経もまた、完成した紙を誰かに見せるわけではありません。そもそも上手い下手を競うものでもない。自分が自分と向き合うためだけに存在する行為です。ヴァイオリンも同様で、アマチュアが練習したところで、ほとんどの場合、他人から褒められる場面はありません。音程が改善したところで、社会的な地位が上がるわけでもない。練習した本人しか気づかない、微細な変化の積み重ねにすぎません。
では、なぜ続けてしまうのか。理由は簡単で、静かに心が整うからです。
フレーズがようやく自然な流れに聞こえた瞬間、あるいは、昨日より半音分だけ音程の迷いが減ったと感じた瞬間、胸の奥がふっと軽くなります。誰に見せるでもない、ごく小さな変化。それを自分だけが知っている。その自己完結した満足感が、精神のバランスをほどよく調節してくれるのです。
結局、ヴァイオリンは写経のようなものだと気づいたとき、ようやく楽しめるようになります。「今日は上達した」とか「下手になった」とか、そんな直線的な評価軸ではなく、ただ音を整える時間そのものを味わうという境地に至るのです。進歩が遅くてもいい。毎回つまずいてもいい。ただ、その日の自分の心を静かに整えるために弾く。そう割り切った瞬間、ヴァイオリンは苦行から、精神安定装置へと変わります。
そして気づくのです。写経に「完成」という概念がないように、ヴァイオリンにも終わりはない、と。いつまでたっても音程は揺れ、表現は迷い、弓は暴れます。それでも続けるのは、その迷いや揺れこそが日々の雑念を洗い流す役割を果たしてくれるからです。
ヴァイオリンを弾くことは、上達のための活動ではなく、むしろ日々の心の掃除なのかもしれません。そう思えるようになると、今日の練習もほんの少しだけ優しい気持ちで終えられます。これってある意味上達に対する諦めともなりますが、反面、アマチュアにとっては慰めにもなるんじゃないか、と思いますが、いかがでしょうか。
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