パリ管弦楽団とかウィーン・フィルが来日して演奏会をする。これは当たり前の光景です。逆にNHK交響楽団とか読売日本交響楽団が海外で公演をする。これも当たり前のこと。ところでそのツアー日程はどうなっているのでしょうか。例えばある年の読売日本交響楽団は、3月2日から8日までの日程で4カ国5都市、5公演を行っています。まあこんなもんでしょう。
ところが、昔はとんでもない回数をこなしていました。
同じ読売日本交響楽団の1967年海外公演は10月1日から11月23日まで2カ国41都市、41公演! 1971年は9月27日から10月31日まで7カ国28都市、30公演。辛い。1981年は10月28日から12月7日まで8カ国23都市、28公演。当時の現地の移動は大型バスがメインだったらしく、これは疲れるでしょう。それでせいぜい3つくらいのプログラム内容をローテーションするわけですから、精神的ストレスも相当のものだったことでしょう。
それでも、当時の音楽家たちはそれを「名誉な仕事」として受け止めていました。戦後間もないころ、日本のオーケストラが海外で演奏するというのは、単なる興行ではなく「文化外交」の一環でもありました。つまり、一音一音が「日本のイメージ」を背負っていたのです。今のようにSNSでリアルタイムに評判が広がる時代ではありませんが、新聞やラジオを通じて現地の評価が伝わり、それが団員たちの誇りにも、またプレッシャーにもなりました。
当時の移動環境を考えると、まさに体力勝負です。いまのようにLCCで気軽に飛べる時代ではなく、ヨーロッパ各地を移動するにも大型バスで長時間の移動。しかも移動日と公演日がほぼ連続していることが多く、連日の本番に加えて、宿泊先の環境も安定しない。ホテルの暖房が効かない、シャワーが出ない、食事が合わない・・・。そんな不便を笑い話として語れるのは、何十年も経った今だからこそでしょう。
また、当時の日本のオーケストラは現在ほど恵まれた楽器環境やサポート体制があったわけではありません。楽器の輸送も簡単ではなかったことでしょう。今ならツアーマネージャーや技術スタッフが同行して細部まで管理しますが、当時は団員自身がその役割も兼ねていました。
それでも彼らが耐えられたのは、「海外で演奏すること」に特別な意味があったからです。日本のクラシック音楽が世界に認められるようになるには、現地で実際に聴かせるしかなかった。録音や動画配信でアピールできる時代ではなく、文字通り「体を張って」日本の音楽文化を示していくしかなかったのです。だからこそ、一人ひとりが使命感と誇りを胸に、疲労と闘いながら舞台に立っていたのでしょう。
現代のツアーは、交通や宿泊も快適でしょう。現地のホールとの連携もスムーズで(インターネットがある)、リハーサル環境も整っています。そう考えると、半世紀前の演奏旅行は、まさに「文化の冒険」だったと言えます。彼らが築いた足跡の上に、今の日本のオーケストラがある、そう思うと、あの時代の過酷な旅程も、単なる苦労話ではなく、音楽史の中の一章として語り継がれるべきものに思えてきます。
当時の移動環境を考えると、まさに体力勝負です。いまのようにLCCで気軽に飛べる時代ではなく、ヨーロッパ各地を移動するにも大型バスで長時間の移動。しかも移動日と公演日がほぼ連続していることが多く、連日の本番に加えて、宿泊先の環境も安定しない。ホテルの暖房が効かない、シャワーが出ない、食事が合わない・・・。そんな不便を笑い話として語れるのは、何十年も経った今だからこそでしょう。
また、当時の日本のオーケストラは現在ほど恵まれた楽器環境やサポート体制があったわけではありません。楽器の輸送も簡単ではなかったことでしょう。今ならツアーマネージャーや技術スタッフが同行して細部まで管理しますが、当時は団員自身がその役割も兼ねていました。
それでも彼らが耐えられたのは、「海外で演奏すること」に特別な意味があったからです。日本のクラシック音楽が世界に認められるようになるには、現地で実際に聴かせるしかなかった。録音や動画配信でアピールできる時代ではなく、文字通り「体を張って」日本の音楽文化を示していくしかなかったのです。だからこそ、一人ひとりが使命感と誇りを胸に、疲労と闘いながら舞台に立っていたのでしょう。
現代のツアーは、交通や宿泊も快適でしょう。現地のホールとの連携もスムーズで(インターネットがある)、リハーサル環境も整っています。そう考えると、半世紀前の演奏旅行は、まさに「文化の冒険」だったと言えます。彼らが築いた足跡の上に、今の日本のオーケストラがある、そう思うと、あの時代の過酷な旅程も、単なる苦労話ではなく、音楽史の中の一章として語り継がれるべきものに思えてきます。
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