シェイクスピアの代表作は四大悲劇。『オセロー』『マクベス』『リア王』『ハムレット』です。これらは他の作品よりも完成度が高いとされています。理由は、性格悲劇だから。『ロミオとジュリエット』のように誰かの手違いのせいで悲劇が起こるわけではありません。登場人物が、自分の性格に自分で振り回されて、悲劇に突き進んでしまう。まさに自分のせい。でも自分では気づいていない。しかも回避不可能なのです。だって、自分の性格だから。取り替えることはできないから。これは辛い!

シェイクスピアの四大悲劇が他の作品と一線を画しているのは、この「性格悲劇」という構造にあります。人間の弱さや欠点が本人の運命を決定してしまう。つまり、運命に翻弄されるのではなく、自らの性格によって悲劇に突き進むのです。だからこそ観客は「もし自分だったらどうだろう?」と胸を突かれるのです。舞台上の登場人物の苦悩は、400年後の現代を生きる私たちにもリアルに迫ってきます。

たとえば『オセロー』。勇敢な将軍オセローは立派な軍人でありながら、同時に強い猜疑心を抱えています。部下イアーゴに巧みに疑念を植え付けられると、その嫉妬心を制御できず、愛する妻デズデモーナを疑い、ついには取り返しのつかない行為へと突き進んでしまいます。外部からの策略があったとはいえ、最終的にはオセロー自身の嫉妬深い性格が破滅を招いたと言わざるを得ません。

『マクベス』も同様です。マクベスはもともと忠実で勇敢な武将でしたが、「王になる」という野心を抑えられず、妻の扇動に背中を押されて罪を重ねていきます。もしかすると最初の誘惑を断ち切っていれば悲劇は避けられたかもしれません。しかし彼の心の奥底に眠っていた野望が、一度目を覚ますともう止められない。結果として自ら破滅への道を走ってしまうのです。

『リア王』ではどうでしょうか。王であるリアは、自分を愛しているかどうかを娘たちに言葉で証明させようとします。真実よりも虚飾を好み、耳障りのよい言葉に酔ってしまう。正直な次女コーディリアを追放し、巧言を弄する二人の娘に国を分け与えたことで、悲劇は始まります。ここには外的な陰謀はありません。父王の愚かさ、愛情に対する見誤りが直接的に破局を呼んでいるのです。

そして『ハムレット』。彼は優れた知性を持ちながら、決断を下すことができずに迷い続ける性格の持ち主です。父を殺した叔父への復讐をためらい、行動を先延ばしにするうちに周囲の人々を次々と死に追いやってしまいます。「考えすぎて行動できない」という彼の内面の弱さが、まさに悲劇の源泉なのです。

こうして見ると、四大悲劇の主人公たちはみな「誰のせいでもなく、自分自身の性格のせいで滅んでいく」という共通点を持っています。これは観客にとって非常に残酷です。なぜなら、彼らの欠点はどこか自分にも思い当たるものだからです。嫉妬、野心、虚栄心、優柔不断――どれも人間なら少なからず抱えている感情です。観客は「自分も同じ状況ならこうなってしまうかもしれない」と震えるのです。

一方、『ロミオとジュリエット』のような作品では、悲劇は偶然や不運の積み重ねによって訪れます。もし手紙が届いていたら、もし出会うタイミングが違っていたら、物語は幸福な結末を迎えていたかもしれません。観客は「惜しい!」と感じつつも、まだ救いの余地を見いだせます。しかし四大悲劇の場合はそうはいきません。主人公が自らの性格に囚われ、回避不能の坂を転がり落ちるのです。その容赦のなさこそが、作品の完成度を際立たせていると言えるでしょう。繰り返しますがこれは本当に辛い。

だからこそ、これらの作品は単なる娯楽を超えて、時代を越えた人間研究として読み継がれてきました。シェイクスピアは「人間の弱点は、どんなに賢く強く見える人間でも逃れられない」という普遍的な真実を描き出しました。観客は彼らの破滅を目撃しながら、自分自身の性格や生き方を問い直さざるを得なくなるのです。

四大悲劇を鑑賞することは、言わば「自分の中にある危うさ」を突きつけられる体験でもあります。言い換えると、リア王やマクベスというのは赤の他人ではなく、「私」でもあるのです。自分がこれまでやってきた失敗というのは、だいたいが自分の性格が発端となっているのは否定しえないでしょう。しかし同時に、これほど鮮やかに人間の本質を描いた作品があることは、私たちにとっての財産でもあります。だからこそ400年を経てもなお、これらの物語は色あせず、舞台や映画、文学研究を通じて繰り返し語り継がれているのでしょう。