ナチスは悪い、ヒトラーはよくない・・・、そういう感想がごく普通の人の考えでしょう。でもそれって、80年の時間を隔てたからこそ持てる意見であって、当時の空気を知る人からしてみれば違和感を持つかもしれません。(私も戦後生まれなので何ともはっきりしたことは言えませんが。)
なぜなら、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィは『これが人間か』の「若い読者に答える」というチャプターにおいて、ナチスに従ったのは普通の人たちであったことを証言しているからです。つまり国の仕組みそのものがナチスの政策を反映するようになると、自分のやっている仕事そのものがナチスを利するようになっていくわけです。でも周りもみんな同じことをしているので、いまいち罪悪感が抱きにくい。そうこうするうちにいつの間にか自分が人を殺す側に回るわけです。その自覚が乏しいまま、その仕事をしてお金をもらっているわけです・・・。
(ナチスを信奉したのは)非人間的な命令の忠実な実行者も含めて、生まれながらのサディストでも、(少しの例外を除いて)怪物でもなかったことは、記憶にとどめておくべきである。彼らは何の変哲も無い普通の人だった。怪物もいなかったわけではないが、危険になるほど多くはなかった。普通の人間のほうがずっと危険だった。何も言わずに、すぐに信じて従う職員たち、たとえば、アイヒマン、アウシュヴィッツの所長だったヘス、トレブリンカの所長だったシュタングル、二十年後にアルジェリアで虐殺を行ったフランスの軍人たち、三十年後にヴェトナムで虐殺を行ったアメリカの軍人たち、のような人びとだ。(プリーモ・レーヴィ『これが人間か』より)
このように、普通の人がそれぞれの持場で命令を実行していくうちに、社会全体がナチスの非人道的行為に加担してしまっていた、というわけです。
しかしここで私たちが考えなければならないのは、「なぜ普通の人々がそうした状況に巻き込まれていったのか」という点です。ナチス・ドイツの時代、彼らが従っていたのは単なる命令や規則であって、それを破れば自分や家族の身に危険が及ぶかもしれない。そうした恐怖の中で、目の前の「小さな任務」に忠実であることが、自分の生活を守る唯一の手段に思えたのです。つまり一人ひとりは大局的な「ホロコースト」や「大量虐殺」に関わっているという実感を持たないまま、日々の労務や事務作業をこなしていったわけです。
プリーモ・レーヴィが強調するのは、この「普通の人々の従順さ」こそが最も恐ろしいという事実です。怪物的な悪党は少数でも、無自覚に命令を遂行する人間が大多数であれば、その社会は容易に暴力や虐殺を推進する方向へと進んでしまいます。レーヴィの指摘は、アイヒマン裁判でハンナ・アーレントが語った「悪の凡庸さ」という概念とも響き合います。つまり、特別な憎悪や残虐性を持たなくても、命令や規則に従順であるだけで人は加害者になりうるのです。
そしてこの問題は決して過去のものではありません。レーヴィは引用の中で、ナチス時代に限らず、後の時代に起こったアルジェリア戦争やベトナム戦争での虐殺を並べています。つまり、「普通の人が組織の一員として命令に従う」構造は、歴史を通じて繰り返されてきたという警告なのです。時代や場所が異なっても、人間が持つ弱さは変わらない。だからこそ、私たちも「自分はそうならない」と安易に思うのではなく、同じことが現代でも起こりうると考えなくてはなりません。
現代社会に生きる私たちは、国家や大企業、行政機関といった巨大な組織の中で働き、その一部を担っています。もしもその組織の方針が人権を侵害するような方向に傾いたとき、私たちは果たして「これは間違っている」と声を上げられるでしょうか。それとも「自分の役割に過ぎない」と目をつむり、結果的に加担してしまうのでしょうか。レーヴィが伝えようとしたのは、こうした問いを次世代に残すことだったのではないでしょうか。
ナチスの歴史を単に「悪の時代」と切り離してしまうと、私たちはそこから学ぶことを放棄してしまいます。むしろ「普通の人が普通の感覚のままに従っていた」という事実を直視することで、自分自身の生き方や判断のあり方を省みる契機が生まれるのです。それが80年経った今日でもレーヴィの証言を読み継ぐ意味であり、未来に向けて私たちが受け取るべき教訓なのだと思います。
プリーモ・レーヴィが強調するのは、この「普通の人々の従順さ」こそが最も恐ろしいという事実です。怪物的な悪党は少数でも、無自覚に命令を遂行する人間が大多数であれば、その社会は容易に暴力や虐殺を推進する方向へと進んでしまいます。レーヴィの指摘は、アイヒマン裁判でハンナ・アーレントが語った「悪の凡庸さ」という概念とも響き合います。つまり、特別な憎悪や残虐性を持たなくても、命令や規則に従順であるだけで人は加害者になりうるのです。
そしてこの問題は決して過去のものではありません。レーヴィは引用の中で、ナチス時代に限らず、後の時代に起こったアルジェリア戦争やベトナム戦争での虐殺を並べています。つまり、「普通の人が組織の一員として命令に従う」構造は、歴史を通じて繰り返されてきたという警告なのです。時代や場所が異なっても、人間が持つ弱さは変わらない。だからこそ、私たちも「自分はそうならない」と安易に思うのではなく、同じことが現代でも起こりうると考えなくてはなりません。
現代社会に生きる私たちは、国家や大企業、行政機関といった巨大な組織の中で働き、その一部を担っています。もしもその組織の方針が人権を侵害するような方向に傾いたとき、私たちは果たして「これは間違っている」と声を上げられるでしょうか。それとも「自分の役割に過ぎない」と目をつむり、結果的に加担してしまうのでしょうか。レーヴィが伝えようとしたのは、こうした問いを次世代に残すことだったのではないでしょうか。
ナチスの歴史を単に「悪の時代」と切り離してしまうと、私たちはそこから学ぶことを放棄してしまいます。むしろ「普通の人が普通の感覚のままに従っていた」という事実を直視することで、自分自身の生き方や判断のあり方を省みる契機が生まれるのです。それが80年経った今日でもレーヴィの証言を読み継ぐ意味であり、未来に向けて私たちが受け取るべき教訓なのだと思います。
コメント
コメント一覧 (1)
その時の教訓を生かしてGHQは日本に無謀な賠償金の要求をしなかった。