世の中には絶対音感の持ち主がいます。とんでもない天才だ! と思っていたら案外そうではなく、幼少期にピアノを習っていれば身につく場合もあるとか。その他にも生まれながらにしてこの能力を持っている人もいます。そして絶対音感といってもピンキリで、音の高さが分かるという程度の絶対音感から、一度耳にした音楽は忘れない、すぐに楽譜に書き起こすことができるとか、楽譜を読めばその音楽を頭の中で自在に鳴らすことができるという人もいるとか。

歴史上の音楽家のなかでもモーツァルトはこの能力が抜きん出ていたことは間違いなく、バチカンを訪問したときに門外不出の秘曲とされていた「ミゼレーレ」を一度聴いただけで覚えてしまい、宿屋に帰ってから楽譜に書き残しています。私なんて高校の校歌を2時間ぶっ続けで聞かされたのにまったく覚えませんでした。

さて、その「ミゼレーレ」とは一体どのような曲だったのでしょうか。正式名称はグレゴリオ・アッレーグリ作曲の「ミゼレーレ(Miserere mei, Deus)」で、17世紀のローマで生まれた合唱曲です。詩篇51篇「神よ、わたしを憐れんでください」に基づいて作曲され、深い悔悛の祈りを表現しています。演奏形態は、二つの合唱団が呼応しながら歌うという独特のスタイルで、荘厳で神秘的な響きが聴く者を包み込みます。

当時、この曲はバチカンのシスティーナ礼拝堂において聖週間にのみ演奏される「秘曲」とされ、その楽譜は門外不出と定められていました。外部への持ち出しは固く禁じられ、もし違反した者は破門に処されるほどだったと伝えられています。その徹底した管理ゆえに、人々は「幻の音楽」としてこの曲の存在に憧れ、なおさら神秘的なオーラをまとっていったのです。

そんななかで登場するのが、当時14歳のモーツァルトです。1770年、父レオポルトとともにイタリア旅行中にローマを訪れた彼は、システィーナ礼拝堂でこの《ミゼレーレ》を耳にしました。わずか一度の演奏で全曲を記憶し、宿に戻ると五線紙に正確に書き起こしたといいます。翌日もう一度聴いた際には細部を修正し、ほぼ完全な楽譜を完成させました。これは、彼の絶対音感と驚異的な記憶力、さらには天賦の音楽的理解力が合わさった結果であり、まさに「奇跡」としか言いようのない出来事です。

この出来事はヨーロッパ中に知れ渡り、少年モーツァルトの名を一層高めることになりました。結果的に、この曲は彼によって門外に広まり、後世の演奏家や研究者の手に届くようになったのです。皮肉なことに、バチカンが厳重に守ろうとした秘曲が、逆にモーツァルトの才能によって永遠の名曲として広く知られることになったわけです。

今日では、「ミゼレーレ」は宗教音楽の傑作のひとつとして演奏され続けています。特に、少年合唱団による高音部の旋律は、天上から降り注ぐ光のように清らかで、聴く人の心を深い祈りへと導きます。現代の録音技術によって誰でも手軽に耳にすることができますが、当時は選ばれた者しか聴けなかったと思うと、なおさらその神秘性が際立ちます。

絶対音感をもってしても、ただ音を聞き分けるだけではなく、音楽の魂をまるごと記憶し、再現できたモーツァルト。その能力は「天才」という言葉を超え、人類の歴史における稀有な奇跡だったと言えるでしょう。そしてその奇跡が、アッレーグリの「ミゼレーレ」という音楽を、現代の私たちが享受できる大きなきっかけとなったのです。

なお、高校の校歌をまったく覚えられなかったワイはその後ヴァイオリンを始めました。「この曲は暗譜するといいかも」と先生に言われるも「ワイは楽譜が読めるから暗譜しなくても大丈夫やで」と言い返したら怒られました。