古代ローマの皇帝ネロ。皇帝ネロは、ローマ帝国第5代皇帝で、暴君として名が知られています。彼は16歳で即位し、母や妻を殺害し、ローマ大火の責任をキリスト教徒に押し付けて迫害しました。芸術や建築に熱中して統治を怠り、元老院から「国家の敵」と見なされ、最期は反乱によって自ら命を絶ちました。

・・・のように一般的には知られています。ろくでもない人物だと思われがちですが実際はすこし違うようです。もともと母親のアグリッピナが、自分がのし上がっていくためにわが子を皇帝の座につけたいと考えたのが悲劇の始まりでした。そしてその望み通りネロは16歳にして皇帝になってしまった、というかさせられてしまったのでした。

16歳ですから「我こそはこういう人物なり」というはっきりとした自覚がない。にもかかわらず皇帝になってしまった。一体どうすればいいのか。とにかく周りの人にすがってなんとかするしかない。というわけで彼は相手に合わせてすぐに「染まる」人になってしまったようです。未熟なまま皇帝に即位したため、周囲の人物の振る舞いをもとに自分を確かめるしかなくなり、結果的に「自分」がなくなってしまったわけです。彼は自分の黄金像を建てたことでも知られていますが、そうすれば自分がいかに偉大であるかを見せつけることができると思ったのでしょう。

彼の内面には「自分は本当に皇帝としてふさわしいのか」という不安と葛藤が常に付きまとっていたと考えられます。そもそも彼は軍事や政治に強い関心を抱いた人物ではありませんでした。むしろ詩や音楽、劇などの芸術をこよなく愛し、自ら歌い、楽器を演奏することに没頭していました。古代ローマの社会において、為政者が芸術家のように振る舞うことは「軽薄」とみなされ、元老院の重鎮たちから軽蔑の対象となってしまったのです。

そのため、彼の芸術への熱中は「統治を怠った証拠」として記録されましたが、逆に言えば彼は権力に酔いしれるよりも、自らを芸術で表現したいと望む人物だったとも言えます。もし彼が一介の芸術家として生きていれば、その才能は高く評価されたのかもしれません。だが不幸にも、彼は「皇帝」という最も重い責務を背負わされてしまった。そこに大きな悲劇がありました。

また、ローマ大火についても後世の記録は一方的です。火災の最中に竪琴を弾いていたという有名な逸話がありますが、これは後世のプロパガンダによって脚色された可能性が高いとされています。むしろネロは火災後に積極的な復興計画を打ち出し、防火対策を講じたとも伝わります。ところが、豪壮な黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建てたことが「市民の苦難を無視して私欲を満たした」と受け取られ、悪評を広げる結果になりました。ここにも、彼の「自分を示したい」という欲望と、民衆や元老院との乖離が浮き彫りになっています。

結局のところ、ネロの最大の罪は「未熟さを克服できなかったこと」だったのかもしれません。誰かに染まり、誰かの助言を頼り、そしてその相手を次々に排除しながら孤立していく。やがて味方を失い、元老院から「国家の敵」と断じられると、彼は「何と芸術家は私の死によって失われるのか」と嘆きながら自ら命を絶ちました。皇帝としてではなく、一人の芸術家として死んだことを強調するその最期の言葉には、彼の真の心情が表れているように思えます。

したがって、ネロは単なる残忍な独裁者ではなく、環境と立場に押しつぶされた未熟な若者であり、同時に芸術家としての自己表現を求めて苦しんだ人物でもありました。暴君としての側面と、弱さを抱えた人間としての側面。その二つを併せ持っていたからこそ、彼の生涯は後世にこれほど強い印象を残したのでしょう。


参考文献