ヴァイオリンを演奏する人は常に音程の問題に悩まされます。ピアノやギターのように押せばその音がでるという仕組みではなく、自らの音を作り込んでゆかなくてはならないという、極めて難しいもの。

多摩方面から23区に引っ越してヴァイオリンの先生を新たに見つけ、その先生から指導を受けることになりました。まず初回で小野アンナのスケールを弾いてみなさいと言われて弾いてみたところ、弾けてるつもりで実はガクガクであることが指摘されました。というわけで(案の定)難しい曲にチャレンジするのではなく、基礎的な力の充実が当面の課題となり、ヴァイオリンを弾いてもう何年も経つというのに、小野アンナの1stポジションで弾けるニ長調の音階が課題として提示されました。

いやいや、弾けるでしょう。

と思ったら、案外そうではありませんでした。「シ」の音がなぜかいつも低めで暗い感じになるとあっさり指摘されてしまいました。暗いのは奏者の性格が現れているんでしょう、だって「友だちいない研究所」なんていうブログをやってるくらいですから。と思いましたが何も言わずに黙っていました。とにかく正しく弾けてないのは事実。

ヴァイオリンの音程の難しさというのは、本当に容赦なく突きつけられます。楽器自体に正しい音を出してくれる「仕組み」がないのだから、常に演奏者の耳と身体感覚に委ねられるわけです。私の場合、先生から「シが低い」と指摘されたとき、たしかにそうだよなと自分でも感じる部分がありました。普段から音楽を聴くときに暗めの響きを好む傾向があるのかもしれませんし、あるいは単純に指の位置がずれているだけなのかもしれません。いずれにせよ、耳で聴き取って修正するしかないのです。

そこで先生からは「とにかく音階を丁寧に」という指示が出されました。小野アンナのスケールというのは、日本のヴァイオリン学習者であれば誰もが通る有名な教材です。地味で退屈に思えるかもしれませんが、実はこれこそが音楽的な基礎体力を養う筋トレのようなもの。プロのヴァイオリニストであっても、日々スケールを欠かさない人は少なくありません。私も一応、これまで何度も弾いてきたつもりでしたが、先生の前で弾いてみると、自分の中の甘さが一瞬で暴かれるという現実に直面しました。

とくに1stポジションでの音程の甘さは、どんなに華やかな曲を練習してもごまかせない部分です。音階が正しく弾けていなければ、ベートーヴェンのソナタもモーツァルトの協奏曲も、結局は「正しくない音楽」になってしまいます。基礎をおろそかにして難曲に進むのは、砂の上に家を建てるようなもの。そう考えると、ニ長調の音階に戻されるのも納得せざるを得ませんでした。

さらに厄介なのは、ただ指を正しい場所に置けば済むという問題ではないという点です。弓のスピード、圧力、角度、さらには体全体のバランスが微妙に影響して、同じ「シ」の音でも明るくも暗くも響く。つまり「音程」だけを意識すればいいわけではなく、「音色」や「響き」と常にセットで考えなければならないのです。自分では正しく当てているつもりでも、耳に返ってくる音はどこか濁っていたり、くすんでいたりする。これがまたフラストレーションを呼びます。

しかし先生からは「焦らず、ひとつひとつ直していきましょう」と言われました。たしかに、数週間、数か月で劇的に改善するものではないのでしょう。毎日数分でも音階を録音して、自分の耳でチェックしながら微調整していくしかありません。これは非常に地道な作業ですが、いわば自分の「耳の精度」を鍛える訓練でもあります。ピアノやギターと違って、ヴァイオリンには「正解の鍵盤」や「フレット」がないのですから、自分で正解を探し続けるしかない。ある意味、とても孤独で忍耐を要する作業です。

けれども、基礎を固めることの大切さを知ると、不思議と気持ちも少し前向きになってきます。たとえば、正しい「シ」の音をきれいに響かせられたとき、それだけで音楽全体の景色が変わったように感じる。ほんの半音にも満たないズレが、明るさや透明感に直結するのです。これは他の楽器にはなかなかない、ヴァイオリン特有の醍醐味ではないでしょうか。

私の「友だちいない研究所」的な孤独な練習の日々も、こうして少しずつ形を変えています。次にレッスンで先生の前に立ったとき、「あ、この人、シの音がちょっとはマシになったな」と思ってもらえるように。地味な音階練習ですが、その積み重ねがやがて大きな自信につながることを信じて、今日もまた楽器を構えるのです。