転職して初出勤の日に入社式が行われ、社長から辞令を交付されました。そのとき抱負を述べなさいと言われたので、私はこう述べました。

本日、入社のご縁をいただきましたことを、まことに光栄に存じます。
前職におきましては、〇〇にて主に人事、社保、給与の業務に携わってまいりました。
これまでの経験を礎とし、企業人としての責務を真摯に受けとめ、日々の業務に精励してまいる所存です。
微力ではございますが、職務を通じて会社の一助となれますよう努めてまいりますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。

本当はまったく自信がなかった。この転職という決断が正しいものだったのか、今も自信がなく、ということは自己評価としては「やっぱ転職しなくても良かったんじゃないか」と心の中で思っているわけです。というか初日のオリエンテーションを聞きながら「この転職は失敗だった!」と深く後悔していました。短期的には損でも長期的に見ると得するという判断での転職なので、初日にそういう後悔をすること自体早計極まりないことであって、答え合わせは数年後に冷静にすべきです。そう分かっていながらも後悔したということは、それだけその時の自分が精神的に追い詰められていたということなのでしょう。

しかし、上記のように心にも思っていないことを堂々とでかい声で呼ばわるなんて、我ながらようやるわいと思いました。
もちろん、社会人として嘘をつくことが奨励されているわけではありません。けれども、「思ってもいないことを言う」というのは、必ずしも悪意や偽りとは限らない。むしろ、「自信がない」とか「正直まだ何も分かっていない」といった本音をそのまま出すほうが、社会の中では不適切とされる場面が多い。とりわけ初対面の場で、自分の弱さや迷いをむき出しにすることは、「空気を読めない人」と見なされかねません。

だから私は、あの瞬間、「そういうものだ」として割り切りました。まるで役者が台詞を読むように、覚えてきた文章を胸を張って発表する。そこに嘘はあるけれど、同時に「こうありたい」という願望や意思もあるのです。人事や給与の実務経験を活かして会社の一助となりたい、というのは、言葉にしたときにはまだ現実味のない願いかもしれない。でも、まずは口に出すこと。そうすることで、自分の中でその言葉が次第に形を成していく。そう信じてみることにしました。

それにしても、人前で堂々と「光栄に存じます」と言い切った自分を、帰宅後ふと思い出しては少し笑ってしまいました。「いやいや、ほんまに光栄に思ってたか?」と、ツッコミを入れたくなる。けれどもその一方で、「あの瞬間の自分は、あれでよかった」とも思えるのです。自信がなかったからこそ、あのような定型文にすがる必要があったし、その場で最低限の信頼を築くための「演技」として、ちゃんと機能していた。

社会人になると、「自分の言葉」だけで生きていくことは難しい。他人に伝えるための言葉、相手を立てるための言葉、場を整えるための言葉。そうした「建前」が積み重なって、ようやく仕事の土台ができあがっていく。もちろん、そればかりでは息苦しいし、たまには本音で語れる場がないとやっていけない。でも、初日や式典の場で求められるのは、個人の本音よりも、その場にふさわしい態度なのだと思います。

とはいえ、こうしてあらためて振り返ると、自分の中の矛盾が透けて見えてくる。誠実でありたいけれど、あえて誠実でない言葉を選ぶことでしか、場が収まらないこともある。そして、「思ってもいないことを言う」という行為が、案外自分の中にもしっかり根を下ろしていることに気づかされるのです。

社会人として、というより大人として、人はみな多かれ少なかれ「演じる」ことを求められます。ときに苦しくもあり、滑稽でもあるこの営みの中で、どう折り合いをつけて生きていくのか。入社式でのひと幕は、その問いの入り口にすぎなかったのかもしれません。