7月下旬には15年以上住み慣れた多摩方面を離れて江東区へ引っ越す私。
15年以上というと、実家よりも長く今の町に暮らしたことになります。ここまで長期にわたって一箇所にとどまることって、そうそうないと思います。ある時からうっすらと予感していたのですが、自分の人生を音楽に喩えるなら、この15年という歳月は長くて美しいアダージョ楽章だったのかもしれません。
しかし今暮らしている町の景色も、引っ越しが決まるまでは「いや、別に・・・」というただの風景であり、なんのありがたみも感じませんでした。そらそうよ。
でもあと◯週間でいなくなる、ということが確定してしまうと途端に今の環境がありがたく感じられます。たとえば立川。行ったことがある人はわかるのですが立川とくに駅の南口のほうはB級感が漂っており、その光景を見てもそれこそ「いや、別に・・・」なのです。でも、立川のどうでもいい風景すら急に愛着を覚えてしまうこの感情を何と言ったらいいのでしょう?
それは「郷愁」などというノスタルジックな言葉では片付けられない、もっと奇妙で、もっと個人的な感情です。なんの変哲もないコンクリートの建物が、無骨で冷たい街路樹が、いつの間にか自分の生活の背景になっていたという事実に、ようやく気づくのです。引っ越しが決まってからというもの、近所のスーパーで買う納豆の味さえ、「ああ、これもしばらく食べられなくなるのか」としみじみしてしまう始末。どうでもいい通勤ルートも、たった今ふと目に入った小さな公園も、すべてが「最後になるかもしれない風景」として立ち現れてきます。
人間の心はおかしなもので、そこにある間はあまりにも当たり前すぎて気づかないのに、いざ手放すとなると惜しくなる。これは別れの本質であり、私たちが「さようなら」に弱い理由そのものかもしれません。
江東区という新天地に対して不安がないわけではありません。物理的な距離はそれほど離れていないけれど、街の雰囲気も、歩く人のテンポも、おそらく全然違うでしょう。新しく暮らすエリアには美味しい飲食店がたくさんあるという情報は得ていますが、そういう表面的なことよりも「街に馴染めるかどうか」のほうがずっと大切です。
多摩方面の町は、自分にとって「選ばれた場所」ではありませんでした。たまたま就職で流れ着き、気づけば15年以上も根を下ろしていた。東村山とか東大和市なんて地名、聞いたこともなかった。でもその「たまたま」が、人生に深く染み込むような意味をもつことがあるということを、今になってようやく思い知ります。
それでも、新しい土地で新しい生活を始めることには、ある種の決意が必要です。自分の中で「終わったこと」にしなければならないこともあります。昔の町の風景にいつまでもしがみついていても仕方がない。だけど、その思い出がいかに尊いものであったかを、自分のなかに刻み込んでからでないと、前には進めない気がするのです。
たとえば駅のベンチ、たとえば近所のコンビニ、たとえばちょっとだけ遠回りしていた帰り道。日常のあらゆるピースが、いまになって愛おしい。だからこそ、この引っ越しはただの“移動”ではなく、ひとつの「章の終わり」として記憶されることでしょう。
江東区での新しい日々がどんな音楽になるのかは、まだわかりません。でも、願わくば、このアダージョのあとに続く楽章が、軽やかなアレグロや豊かなアンダンテでありますように。そして、過ぎ去った15年が、人生の中でずっと鳴り続ける美しいテーマとして、私の心に響き続けてくれることを願っています。
人間の心はおかしなもので、そこにある間はあまりにも当たり前すぎて気づかないのに、いざ手放すとなると惜しくなる。これは別れの本質であり、私たちが「さようなら」に弱い理由そのものかもしれません。
江東区という新天地に対して不安がないわけではありません。物理的な距離はそれほど離れていないけれど、街の雰囲気も、歩く人のテンポも、おそらく全然違うでしょう。新しく暮らすエリアには美味しい飲食店がたくさんあるという情報は得ていますが、そういう表面的なことよりも「街に馴染めるかどうか」のほうがずっと大切です。
多摩方面の町は、自分にとって「選ばれた場所」ではありませんでした。たまたま就職で流れ着き、気づけば15年以上も根を下ろしていた。東村山とか東大和市なんて地名、聞いたこともなかった。でもその「たまたま」が、人生に深く染み込むような意味をもつことがあるということを、今になってようやく思い知ります。
それでも、新しい土地で新しい生活を始めることには、ある種の決意が必要です。自分の中で「終わったこと」にしなければならないこともあります。昔の町の風景にいつまでもしがみついていても仕方がない。だけど、その思い出がいかに尊いものであったかを、自分のなかに刻み込んでからでないと、前には進めない気がするのです。
たとえば駅のベンチ、たとえば近所のコンビニ、たとえばちょっとだけ遠回りしていた帰り道。日常のあらゆるピースが、いまになって愛おしい。だからこそ、この引っ越しはただの“移動”ではなく、ひとつの「章の終わり」として記憶されることでしょう。
江東区での新しい日々がどんな音楽になるのかは、まだわかりません。でも、願わくば、このアダージョのあとに続く楽章が、軽やかなアレグロや豊かなアンダンテでありますように。そして、過ぎ去った15年が、人生の中でずっと鳴り続ける美しいテーマとして、私の心に響き続けてくれることを願っています。
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